装置化

遺伝記では、純粋に「編集者」という視点・立場に徹するつもりでいるのだけど、この編集者という視点・立場というのは、作者から見れば敵wであることが多いだろうし、またデビュー前の人から見れば闇雲に邪魔をする「俺のこと全然わかってねえ偉そうな奴」にも見えるだろうなあ、と思う。昔、ペーペーであちこちの偉い人に切り刻まれるほどに鍛えられていた頃、僕もそのように思っていたことがあったのだけどw、これは自分が編集者として切り盛りする側に立ってみると、「あのとき言われたアレは正しかった」と思えてくる。
まず、編集者の立場に立つと「いいものができれば、損を出してもいい」という考え方は、捨てなければならない。売れなきゃいかんのである。締切も守らなければならない。輪転機*1を停めれば、損害も発生する。予約してあるトラックだってある。クオリティとコストの両立も考えないといけない。このあたり、僕が「超」怖い話の執筆者としてはあまり書かずに編集の立場に徹していた時代=角川で雑誌編集者をやっていた時代に、徹底的に叩き込まれたことでもある。自腹切っての同人誌ならともかく、商業誌はそうはいかず、やはり胴元=出版社への責任も発生する。
進行についてはネットの利用、DTP作業のセルフ化などで、ある意味今思いつく限りの極限まで効率化を進めてきている。原稿をメールでやりとりし始めるのも「超」怖い話は早かったし、電算入稿やDTP作業の導入が早かったことも、それらすべて執筆者の執筆時間を余計に確保するということにいろいろ利していると思う。
作者サイドがDTPまで導入して作業をしているというのはまだまだ決して多数派ではないようで、京極夏彦先生もその草分けのお一人(http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/07/09/kyogoku/index.html *2 )だと思う。
僕がDTPを始めた頃はまだInDesignが出ていなくて、Pagemakerで試行錯誤していたけど、InDesignが出てからは確かに楽になったし、PDF入稿に対応するところが増えてからはますますギリギリまでの時間確保はできるようになった。*3
もちろん、そういう裏方的なことは作家さんは考えなくていいわけで、デザイナー出身で装幀もなさる京極先生以外では、ここまでやる人は稀少だろうと思う。
そういう工程を知って、作業時間を圧縮し、その上でどうすればコスト割れしないで作業ができるか、なんてことについては、やはりどこかで誰かが引き受けて考えておかないといけない問題ではないかいな、とも思う。
普通は版元の編集さんがそういうところを引き受けているわけで、それ故に営業的な問題、読者・会社への責任、それを理解した上で、著者志望を「著者にする」というような育成の仕事を兼ね備えている凄腕の編集さんというのが、昔はゴロゴロいらしたのだ。もちろん今もいると思うし、僕などはそれらの俊英に比べればまだまだ全然ヒヨッコなのだけど*4、とりあえず22年分のノウハウというのはあったりする。モノカキ屋さんとしてではなくて、故にこのへんは編集者的な視点の話になるのだけど、こういうノウハウについて、書き残すなり誰かに託すなり一般化しておくなりしておきたいな、という気持ちが最近いろいろ強くなってきている。
別に子供も弟子もいないし社員でもないし、別にどこにも残しておかなくてもいいんだろうけど、そういう気持ちになってきてるというのは、なんかのフラグが立ってるみたいでやだなw


超-1もそうだし遺伝記もそうなのだけど、最終的には僕がいなくても或いは僕以外の誰かが代わりに「作業」をしても、自動的に運用できる装置になるのが、遺伝記/超-1システムの目指すところ。
現時点でどちらもフレームワークがほぼできつつあるので、例えば僕が入院して作業に携われないとか、その他の仕事に忙殺されて内容チェックがほとんどできないとか(今正にそれw)いうようなことがあっても、僕以外の誰かが同じフレームワークで処理できている。もっと言えばそのへんの作業も全部自動化できるところまで、行けたらいいなあ、と思う。
作品を応募すると、点数の計算と順位確定までしてくれる装置というかw
もちろん、作品執筆や審査は個々の応募者がしなければならないし、そこは自動化のしようがないというか、自動化できちゃったらクリエイティブな現場に人間はいなくていいということになってしまうんだけど(笑)、ある程度の合理化と効率化を進めていって、企画運営そのものを装置化できたら、どんなに楽だろうかと思わなくもない。ああ、それは甘美な夢w
仮にそれが実現できたらそれこそ僕自身は用無しになるんだけど、企画そのものは自動的に動いていくことになるわけで、それで空いた余力でまた別のことができるようになる。
「必ずそこには自分がいなければダメで、自分がいないとひとつも動かなくなる」という要諦に自分を置くことで、自分の存在意義を高めるとか、代替が効かない存在であるということを印象づけて自分の価値を高めるとかいうことも有効であろうと思う。
その反面、「自分にできることを他の人にもできるようにする」「自分がコケても、必ず代替できるバックアップ要員を用意できる」というフェーズに進むことによって、それは「個人の才能にのみ全面依存の脆弱な仕組み」から、「誰かが斃れても停まらない装置」にシフトできる。
僕の場合で言えば、僕にとってものを作る(書く)のは別に芸術ではなく、もちろん自己実現や自己表現でもないわけで*5、恐らく要領がわかれば他の誰かで代用が利くような程度のことなのだろうなと思う。代わりが効く仕事、というのはそういうこと。
編集の仕事というのはチームで動くことが多いので、特にそういう「万一のときのためのバックアップ」が重要になり、替えが効かないオンリーワンの存在である作家さんとは、根本の部分で思想が異なるのかもしれないな、と思わなくもない。迷惑を掛けないように頑張るのは当然として、迷惑が掛かりそうな場合に普段から備えておくとかそういう。


このへん、作家と編集者っていうのは、どこまでも相反するものなのかもしれない。
作家はクリエイティブでオンリーワンでなければならず、自分が掛け替えのない存在であることに価値や意義が生まれる。価値創造のためであれば、他の全てを犠牲にしてもよいという大義名分もある。
編集者はシステマチックでバックアップがなければならず、結果を出すために時には自分自身をパージしたり、恨まれるくらいのことをする人すらいる。
作家の視点でカリカチュアされた編集者像は、「大して働かない癖に偉そうで急かすばかりの酷い奴」として描かれることが多いし、実際そういう印象を持たれてるんだろうなー、と思う。
でも両方やってみると、「なぜそうなのか」という理由について、どちらの言い分もわかるようになってくる。自分でDTPまでやっちゃうと、その煽りを食らって印刷機停めて待たされる印刷屋さんやデザイナーさんの気持ちまでわかるようになってくるw
「誰も悪くはないのにー、悲しいことはいつもあるー♪」とは中島みゆきのかなり古い歌の一節なのだが、編集者の弁護をする人は少ないのでw 作業内実とかもひっくるめてときどき書こう、とか思った。
もっとも、僕が知っている80年代末期〜2000年代初頭と、今とではまた少しずつ現場の事情も変わってきているだろうと思うので、そのへんは割り引いて。


僕の中では「超」怖い話も恐怖箱(超-1も遺伝記も)もそうで、誰がいなくなっても「超」怖い話は同じクオリティを読者に同じように提供し続けられるかどうか、僕がいなくても超-1や遺伝記を回していくことが可能で、作者を収集発掘し続けていくことができるかどうか、ということが結構重要。既に夢明さんはいないわけで、この状態であっても「超」怖い話「超」怖い話として継続させる、さらに僕もいなくても「超」怖い話が継続できる、というのが僕の目指すところ。
そしてそれは、極力「一個の才能の存在に全依存しないと成立しない」ような脆弱なものではないようにしていかなければならない。これまでの「超」怖い話はそうした一個の天才に依存してきたわけだけど、もうそういう依存できる天才は「超」怖い話にはいないのだから。
新たな天才を捜して、代用に立てるということもできなくはないのだろうけれど、一個の才能に全依存してしまうと、逆にその才能を潰してしまう危険性というのも出来てくる。責任感がプレッシャーになってしまうケースだってあり得る。また、どんなに才能があっても、増長、傲慢から本来の力が次第に発揮されなくなり自己崩壊してしまった例だって過去にはあった。才能の量と、精神の強さというのは必ずしも正比例しない。才能が豊富でも精神の脆さ故に壊れてしまった人たちは、文学史に例を取るまでもなく、まったくもって珍しくない。況や、「超」怖い話で天才的な前任者のしてきた仕事を寸分違わぬレベルで代わりをやれ、という無体を誰か一人に押しつけようというのは、「おまえ氏ね」というようなものである。それはできない。僕にだって無理。


才能ある人の出現を待っていて、才能ある人の新作を待ってもいるのは常に読者なのだと思う。読者に買い支えられなければ今はないわけだし、その基本を忘れたときモノカキ・編集屋としては終わってしまうんだろうなー、とも思う。
そうした読者の期待に応えられる人を見つける仕組みを過去多くの先達が探し続けてきている。遺伝記や超-1も、そうした試行錯誤されてきた方法論のうちの極ささやかなひとつに過ぎず、またこれが究極の方法であると言うのもおこがましいことだと思っているけれども、その一助になるようなことを考えるのは、やはり恩返しの一環なのかなあ、とも思う。
遺伝記/超-1が、とりあえずの「自動練習装置」「公開鍛錬装置」くらいの役目を果たせて、読者に才能を引き合わせる僅かな助けになれば、少なくともその最初の一歩くらいの効果が果たせれば、きっとみんな幸せ。
もっと上を目指すことになるであろう人の、最初の一歩に関われたら、カタパルト屋としては嬉しいなあ。

*1:実際にはオフセット印刷

*2:このレポートで言われているように、多くの場合の編集者(作者と印刷所の間に挟まるだけ、のような)は、ワークフローの効率化の障害になったりする場合もある。「超」怖い話系、恐怖箱系では、京極先生のいう「作者自身が組版までやる」という構想にかなり近いところまで、「超」怖い話Aの時点で辿り着いている。効率化のためのワークフローの改善は毎巻毎巻繰り返されていて、このへんが「超」怖い話チーム/恐怖箱チームが最小のユニットでぎりぎりまで踏みとどまってこれた理由だろかと思わなくもない。

*3:もちろん、組版作業を自前でやるってことは、校正についての責任も負わないといかんわけで、その部分を削ってDTPに走ると今度は誤字脱字が大幅に増えてしまうというデメリットもある。やはり作業時間の確保っていうのは書籍のクオリティを維持するためには大事だな、と思う。編集者的にw

*4:22年やってもヒヨッコw

*5:極論すれば「必要事項の伝達」「記録」「覚え書き」程度の意味でるわけで。