ネタ:神籬信仰と御柱祭

大昔書いたメモにあったご神木ネタ。ガラパゴスエストとかそのへんのw ご神木ネタはもう腹一杯なんだけど、そういやこんなのあったな、ということで書いてみる。
偶像崇拝のごくごく初期段階にある原初的な信仰というのは、大きく分けて岩座(いわくら)信仰と神籬信仰に分かれるらしい。岩座信仰というのは巨石信仰という奴で、日本なら亀石とか。ストーンヘンジなども入るのかもしれない。大雑把に言うと、「神様は大きな岩に宿る」というのが岩座信仰。
対して、神籬信仰というのは「神様は大きな樹に宿る」というもの。神籬と書いて「ひもろぎ」と読む。
大きなモノ、大きく成長したモノに神性を感じてそれを畏怖し信仰の対象にするというのは世界的に見ても普遍的なもので、逆に信仰の対象にするために大きな構築物を作るという方向にシフトした信仰はいくらでもある。パルテノン神殿だのモアイだの東大寺だの。
日本の場合、多湿な温帯だったこともあって大木が神性を帯びて信仰の対象に昇華するというのはごく自然な流れだった様子。
お祭りで担ぎ出される「おみこし」は、御神輿と書く。読んで字の如く「神様が乗る輿」であるわけで、御神輿の担ぎ棒の上にある構造物は神棚の上や神社にあるお社と基本的は同一のもので、中には神様が入っている。それに神様を乗せて皆でわっしょいわっしょいと運ぶわけだ。
大昔w、その神様が乗る輿、神輿の祖型はどのへんにあるのだろーというのをいろいろ考えた時期があるのだけど、どうやらそれは諏訪大社で7年目ごと(干支1周の間に2回なので、6年に1回)に行われる御柱祭あたりにその原型があるような気がしている。
諏訪御柱祭では神様は普段は山にいる。あそこんちの祭神は確か大国主命タケミナカタ*1だったかなと思うのだが、この神様は普段は野山を駆け回っていて、6年目ごとの御柱祭では里に下りてきて、人々と収穫を祝い饗するのだそう。諏訪大社では御祭神は「狩りの神様」でもあって、ここには「山にいるときは狼(大神)だが、里に下りてくると狐(田の神で豊饒の象徴)になる」というような感覚という話を土地の古老から伝え聞いた。神様が里に下りてくる、さあみんなで一杯やろう、ということで御柱祭は沿道に酒と食い物が大量に用意される。十何年か前、祭り見物に行った折り、引き子を手伝わせて貰ったのだけど、沿道には至るところに酒の肴があり、片手が空いているとコップ酒をばんばん注がれるというそれはそれは夢のような(ry 
脱線。
斯様に諏訪大社御柱祭は「山にいる神様を里に迎える」というアウトラインがあり、山に入って神様が宿る御柱(=大木)を切り出し、それを里まで引き下ろし、大社まで神様を乗せた御柱を引っぱって来る。
諏訪大社は上社と下社があり、さらにそれぞれ二つずつの宮があるため、都合4宮。社はあるけれども神様はそこにはおらず、社の周囲4個所に建てられる*2、という次第。
神輿の形にはなっていないけれども、山から神様を乗せて運んでくる御柱は正に「神様の乗り物」「神様の輿」、神輿の祖型というのにふさわしいように思う。この荒々しい「神様を連れてくる」という形が、次第に木工技術の発達や宮大工の技術向上などと相まって、「ミニチュアの社に神様を入れて持ち運ぶ」という神輿に進化していった、ということではあるまいか。
この御柱祭は、1000年ほど前に時の桓武天皇の命によって諏訪湖周辺の民が、自分達の持ち出しでやんなさいよ、と命じて行われるようになったというのが歴史から読み取ることができるのだそうなのだが、桓武天皇が開祖というわけでもなく、「既に定着していた祭りを、桓武天皇が後追い追認で了承したもの」ではないか、とも言われているらしい。なんでも、桓武天皇どころか縄文時代というか、1万年くらい昔から「山から木を持ってきて運んで」というような習慣が続いていたらしい、という説もあるのだそう。事実は不明ながらありそうな話。
御柱祭はいろいろエピソードも多く、二次大戦が激化した戦争最末期を除いて、飢饉があっても地震があっても欠かしたことがなかったのだそう。大変なことがあった後の最初の御柱祭ほど御柱が太くなるという傾向があるのだそうで、二次大戦が終わった後に最初に行われた御柱祭で引かれた御柱は、記録に残る限りでは御柱祭史上もっとも太かったらしく、必ず通らなければならない橋を渡ろうとしたら御柱が太く長くて曲がりきれず、ブルドーザーで橋の欄干のほうを落としたらしい。
まさかあ、という気がしないでもないのだけど、御柱に賭ける諏訪の情熱は尋常ではないので、あり得なくもない。上諏訪の手長神社の場合*3、神社が山の中腹にあるため御柱が山道を駆け上がることになるのだが(もちろん人間が引く)、山道の入り口のところで毎回必ず石段をぶちこわしていた(衝撃で)。その修理代が馬鹿にならないので、御柱の時期だけ、山道の入り口の最初の数段のところにアスファルトを敷き詰めるようになった。「石段を作り直すよりは安いから」ということだったけど、それするようになるまでは特に考えずに毎回石段をぶっこわしていた様子。ってオイ。
諏訪御柱祭は木落としと川渡りが特に有名で、川は御柱が川に突っ込み、反対側に引きあげられるもの。木落としは御柱を山の斜面から下に落とすというもの。特にこの木落としは、斜面を落ちる御柱の上に氏子が満載で跨り、跨ったまま下まで落ちる。最後まで乗っていた氏子は、次の6年間は神様とされるらしい。が、ここがもっとも危険な場所でもあって、ほぼ毎回必ず死人が出る*4。斜面を転がり落ちる御柱の下敷きになったり、御柱が頭にスコーンと当たったり。一度など、眼球飛びだしちゃってる氏子さんを目撃orz いや、そのまま本人ニコニコしながら歩いて(ry 御柱祭開催期間中に死ななかった場合は「死亡者数」には数えられないのだそうで、生死の境をさまよった挙げ句に会期後に亡くなった場合は「御柱祭の死者」には入らないのだとか。
御柱に跨って木落としに参加できるのは男性に限られ、女性は乗れない。御柱を男根に準え……てるかどうかはわからんけど。多分、危険だからだとも思う。御柱の上に女性が乗れるようになったのは(木落とし以外の場所で)意外にも新しく、戦後暫く経ってからかららしい。以前は引き子も男のみだった。
また、木落としの見所のひとつに木遣り歌がある。江戸木遣りなど、鳶や大工が上棟式で唸るものもあるが、木落としでも地元の鳶の人などなどが木遣りを歌う。案外平易な現代語で歌われていた。他に木遣りのバリエーションで「ラッパ」や「ブラスバンド」もある。とにかく景気よく行きたい、ということで毎回毎回進化しているらしい。伝統を変えずに守るということについては、「山から里へ」「御柱を引っぱる」「酒必須」「木落とし必須」などがクリアされていれば、木遣りの楽団化や花火やらの景気づけについては、どんどん付け足して変えていってもいいものらしく、「あそこのは格好いいな」「次はうちもやろうや」てな具合で案外鷹揚。
「人を見たけりゃ御柱へ行け」と言われるほどに人出が多く、勇壮というよりやたら無茶で、見に行った人々は「客」ではなくて祭りの参加者として祭りに引き込まれ、一度行くとまた行きたくなるものらしい。
上社と下社では上社のほうが格式が高く、昔は上社の御柱のほうが太くて立派だったのだが、いつぞやの台風で上社の御柱を切り出すと決められている山の山肌が地滑りを起こしてしまい、それ以来下社の御柱のほうが太くなってしまった。どの町内がどの御柱を引くかというのは毎回くじ引きで決められるのだが、誰もが少しでも太い御柱を引きたいもんだから、「太いのが担当になりますように」とくじ引きは真剣そのものなのだそう。
地味で静かで倹約家で大人しい諏訪の人々が、7年ごとの御柱祭でだけは熱狂的になってしまい、沿道の家は襖を取り払って引き子をもてなし、通り沿いにあるホテルや飲食店なんかは、駐車場を開放してお休み所として飲食物をズラリと並べないと、「あそこは御柱祭に非協力的」と後々文句を言われて商売が傾くらしいw ホテルオードブルがずらーっと並んで開放提供されている様は、なんだか凄かった。
コトがコトだけに、やはり大工・鳶職の活躍が見られるのだが、同時に「ヤクザモノは仲間に入れない」という固い掟があるのだそう。やんちゃしている乱暴者は、御柱を引かせて貰えないんだそうで、なぜかと訊くと「祭りがつまらなくなるから」と極めて真っ当なご意見。
そういや地元のお巡りさんが木落としの現場で観客を整理するとき「御柱が落ちてきますから下がって! 危ないから! 下がれ! 俺だって乗りたいんだ!」お巡りさん、本音が出てます!
そうやって大騒ぎwして連れてきた神様on御柱をそれぞれの宮に立てることを建御柱と言う。建御柱が済むと「やまのかみさまおかえりだー」という木遣りとともに、楽しい時間を過ごした神様は山にお帰りになるらしい。


神様、行きは輿(御柱)に乗ってくるけど、帰りは御柱なし。
帰りは徒歩なのかもしれない。それとも、そのへんでタクシーでも拾うんだろうか、と下らないことがメモに書き留めてあった。

*1:記憶違いorz 子細はお宮さんが正しいっす。

*2:引き回して神様を連れてくるのだが、その御柱は次の7年目まで社の周囲4個所に建てられる

*3:諏訪周辺では諏訪大社御柱祭が一番有名だけれども、諏訪大社以外の小さな神社、氏神さん、さらにはその周囲にある鶏小屋みたいな小さな社に至るまで全てが、その年に大小様々な御柱祭を迎える。鳥の巣箱みたいな小さな社の周囲に、割り箸みたいな御柱が建ってたのを見たことがある。

*4:会期中には出ない年もある