クライアントとか


幸いにして、以前ほどには謎の言語でオーダーするクライアントに仕事で出くわす機会は減ってきたのだけど*1、バブルの時代くらいの頃や、その頃にウハウハだった世代の人に稀に出くわすと、今でもフィーリングでオーダーを出されることがある。稀に。
「わくわくした感じで」
「ちょっとアレしてもらえれば」
「お任せしますよ」
で、お任されて仕事を進めてみると、
「僕のイメージと違う」
「そうじゃなくってアレなんだよね。言わなくてもわかるでしょ?」
「もう少し汲み取っていただきたいというか」
もっと凄いところになると、打ち合わせに行くたびに担当者が異なり、最初の担当にOKもらった指示で作業を進めて中間報告に行くと、別の担当がNGを出し、そのNGに従って直して持っていくと、最初の担当がNGを出すという。*2


なんというか、自分でなんでもできる人というのは、自分にできることだから今更言わなくても他の人もできるし、できて当然だと思ってるし、言われなくてもできることができない人は劣ってると思ってる。
まあ、1を言われてそこから連想して2や3をできる応用力のある人が欲しいよね、という気持ちはわからないでもないけど、具体的な指示がなさすぎるのも困る。
こういう人が職場の上司だったりすると最悪でw、さらに取引先だったらもっと最悪。
「おまえがやれっつったんだろ!」とボヤキながら、数週間分の仕事をやり直し、というようなケースも少なくなかろうかと思う。


その一方で。
連想して応用力を発揮したほうがいい職種というのと、独走してもらっちゃ困る職種というのはあって、一方の美徳がもう一方では最悪という場合もあるので、どっちが正しいというデジタルな回答はないのだけど、自分が考えて自分の裁量で進める仕事を裁量ごと任されるのであれば、連想力・応用力は問われるかもしれない。
例えば、作家として独自作品を書け、とかみたいな。それこそ、細かい指示をされなくても、ヒントとテーマをオーダーされたら、そこから自分好みに広げていくという応用力が問われる。


逆にクライアントがあって、そのオーダーに忠実、或いはできるだけクライアントの趣旨・目的に合うように、クライアントの代行者になるような場合。
実話怪談などの場合、著者が自由自在に話を作り替えていいわけではないので、体験者の説明をできるだけ体験した当人が「そうそう、そうだった」と納得できるような形に整理して再提示する、というのが仕事の柱になる。体験者というクライアントが存在せず、恐怖のポイントから怪異そのものに至るまで作者の裁量に全部委ねられる小説との違いはそこかもしれない。


体験者の方々の多くは、人前で流暢に起承転結や情感を込めた話をしたり、納得のいくうまい説明文を職業的に書いたりする方々ではない、ごくごく普通の人、または「文章や口述については門外漢の人」である。
取材をしていると、記憶が曖昧だったり、もっともショックだったところやオチから話し始めるため、話の文脈が前後したりというのはよくあること。それらを聞き取って、時系列を整理して、記憶の欠落を埋めていく、という作業を積み重ねることで「そのとき、その場で、一体何が起きていたか?」を、浮かび上がらせることができるわけで、そういう作業というのはゼロから作る彫刻と、骨に粘土をかぶせる復顔ほどにも違うよな、と思うのはそういうとき。
それ故に、実話怪談というのは「人の話を聞く、人の話を額面通りに受け取るのではなくて、体験者当人が漏らしている情報を、既に出揃っているピースから探り当てていく」という洞察力が求められるのかもしれんなあ、とか思う。実話怪談を書くのに必要な能力と、小説を書くのに必要な能力は、もちろん多少は被ってるだろうけど、その重要な骨子部分は完全には重複してないんですよきっと。


まあ、物の見方とゆーのは、スタンスによっていくらでも変わりますな、というお話。
と、週末のトークライブで話せば良さそうなことを、ついここに書いてしまった。

*1:有袋類の人はかなり編集者運が悪くて、未だに「物凄い人」に出遭うらしい。合掌。

*2:どこにでもある実話。