終わりつつあり

チェックにチェックを重ねて、なんとか遺伝記が終わりそう。
連休に入る前に作業そのものは概ね終えていたのだが、最後の最後で瑕疵が出てorz、……まあ直せたからいいものの、余裕っていうのはいろいろな意味で大切だなと思った。もしこれが、のっぴきならない時点での発覚だったら、いろいろなものがガラガラ崩れ落ちるところであったorz
夜が明けたら、バイク便の人にデータ諸々渡しておしまい。


一応、白焼きチェックなどもあるのだけど、ある意味で僕の仕事はもう終えたも同然。これ以上こぼれがありませんように、でも責了前に見つかりますように。ああ、ジレンマジレンマ。
今月中にやろうと思ってた仕事もあるので、できるだけ早くアタマを切り替えなければ。


遺伝記本の正式タイトルは「恐怖箱 遺伝記」に既に確定。捻りありませんが、無駄に長くなるよりいいじゃない、ということで。第二回がやれることがあったら、そのとき考えりゃいいじゃない、とw


おそらく、これが今年最後の恐怖箱になるかと思われる。
怪医、蛇苺、老鴉瓜、彼岸花、そして遺伝記。
新ブランド立ち上げ*1ということもあったけど、これだけ矢継ぎ早に同一ブランドでシリーズ化できたということの背景には、それほどに「著者の層が分厚くなった」ということがあると思う。これは非常に大きい。一連のシリーズは、一定数、一定クオリティ以上の応募者がコンスタントに応募してくださるからこそ成立する企画であるわけで、超-1第一回で感じたのと同じように、これら恐怖箱は僕の力が云々というよりも、商業出版社を動かした応募者の力が本当のところは一番大きいのだと思う。
怪医、蛇苺、老鴉瓜は、昨年までの蓄積。彼岸花は、それだけ大量に著者を輩出しても、なお本が出せるという超-1勢の「順番待ち組」とも言うべき層の厚さ、市井から湧き出る実話怪談の多さを表したものと言えようか。
今年、蛇苺と老鴉瓜が決まった時点で怪コレは一冊と決まっていた。これは2006/2007の上位を占めていた上位ランカーの選抜があったから、というのももちろんある。その不安は一掃されたなあ、と思っている。*2


「人が取れたから、もうこれで十分、これ以上は必要ない」と、超-1の門を閉じてしまうこともできたと思う。だけど、実話怪談を見つける、それを見つけられる人を掘り出す、というのは、「もうおなかいっぱい」というのは許されないのかもしれんなあ、とちょっと思う。
自分一人だったらともかく、書き手は次々に刷新されていくわけで、こりゃキリがないw
「実話怪談は自分で書こうと思って書くものじゃなく、たぶん向こうの都合で選ばれて書かされるものなんだよ」というようなことを、歴代編著者の方が言っていたことがある。
僕はこの分野には特に編集者として多く関わらせていただいてきたわけなのだが、それは常々実感している。超-1のような仕組みは、それだけ【彼等】に都合がいいのだろう。僕はまた使役されてるのかもしれん、とか夜中に一人でそう思うことがたまにある。


遺伝記は実話怪談とは毛色の違う向きのための趣向ではあるが、3年繰り返して成熟しつつある超-1ルールに手を加えたものを、実話怪談以外にも適用できるかどうかの実験としては、大いに手応えを感じた。
その若干奇妙なルールは、Web上でこそ生きるものではある。では、それを如何にして書籍(文庫)というレガシーな媒体の上に再現するか、というのが、傑作選「恐怖箱 遺伝記」の最大の課題であった。紙の本は一方向から読むのが普通だし、Webのように自由にリンクやジャンプをすることもままならない。だがその不便さの中に、書籍/文庫の可能性をもう少し拡大延長するための何かがあるのかもしれない。
遺伝記は課題てんこ盛りで望んだが、ここから何らかの成果を引き出せて、また次に進むためのデータを蓄積できればいいな、と思う。
またおつきあいいただければ、とても幸せです。


一方で、遺伝記では課題も残った。
遺伝記の課題というよりは、「恐怖というものの捉え方」を、どう踏まえた上でどうアプローチするか、という課題が浮かび上がったというか。
実話怪談好きと創作怪談好きの双方を兼ねている人もいれば、「実話は実話だから怖いけど、創作は作り話だから怖くない」という人もいるし、逆に「作家が脳味噌を搾って作り上げたプロットとアイデアと文章力は称賛に値するが、胡散臭い与太話を本気で信じてるってバカじゃね?」という人もいる。
実話怪談は不特定多数の一般常識に照らし合わせたとき、「不信」の上に成り立っているといってもいい。誰もが無条件に信じてくれる代物ではないからこそ、なかなか世に出てくることがなく、また体験者の多くの方々が「でもきっと自分の気のせい」「気のせいじゃないと思うけど、人に言ったら電波扱いされるから」と口を閉ざしてしまう。そういう体験者にとっての辛さと難しさの上に成り立っているものでもある。


今回、遺伝記を通じて明らかになったのは、実話と創作という溝だけでなく、創作怪談の中にもまた多くの溝があるということ。というより、奇しくも「ハトと二挺拳銃とロングコート」の中で係長が的確に言い当てているように、恐怖なんて人それぞれで、自分が怖いと思うものを相手も怖いと思うとは限らず、セケンに大受けの恐怖に自分も同調するとは限らない。
でも、「できることなら、自分が怖いと思うものを他の人にも怖がって欲しい」と思うものである。自分が感じた恐怖に共感して欲しい、というか。
実話怪談と創作怪談が唯一共通しているのはそこ――「自分が感じた恐怖を他の人にも怖がってほしい」*3であるかと思う。
遺伝記では実に多彩な「怖い話」「怖いシチュエーション」「怖いオチ」が満載であったけれども、人によっては怖さを感じないこともあろうし、笑い出す人、嘲る人、金返せと怒り出す人も様々あろうなと思う。
要するに、100%を納得させられる恐怖というのは難しい、と。
究極的には「死を剥き出しで放り出し、お前は今からこうなる」という予言をするくらいしか、究極の恐怖はないんではないかと思うのだけど、「死」及び「死に至る経緯」を空想できる想像力は人によってまちまちだし、最近は死んでみるまでわからないというか、「それをやったら死ぬだろ!」というようなことを、死の可能性をまったく考慮できずにやってしまう人も珍しくないというか。そのくらい、「死の可能性」を想像するのは難しくなってきてるのかな、とちと思う。
映画やドラマやアニメや漫画(や、小説)では、「死」が描写される機会はいくらでもあるし、次々にあっけなく死ぬ描写が繰り返されているのに、それが「自分にも起こること」として連想できない人、モニター、ページの向こうにだけあることで、自分には起きないことだと思っている人が増えつつあることが、恐怖の共有の難しさに拍車を掛けてるのかもしれないなー、とか。
さらに、日本は「死」を隠す優しい社会であり、交通事故の報道は潰れた車を映すことはあっても、車に挟まれて死んでいく人を映し出すことはない。事件の被害者が運ばれていく様が映されることも減ってきた。発見される死体はブルーシートで隠され、死んでしまった人が、本当に死んだことを証明する映像は僕らの目には届かないところに置かれる。
「死」ということ、何をすると死ぬのかということ、自分自身が死に至る可能性ということなどを想像し、自分に起こり得ることとして置き換え、脅威に対する慎重さを涵養するのが、教材として恐怖を売るということの意味なのではないかなあと、仕事の意義を考えてみたりもする。
怖がらない人、または「それは恐ろしいことだ」という想像が共有できないケースは、価値観の多様化+脅威を隠す過保護社会の発展によって、ますます増えていくんじゃないかなと思う。
目の前で、日常的に人が死ぬ様子を間近に経験する機会がある人ほど、克己心があって恐怖に強い、のではない。そういう人は、「自分も死んでしまわないように、より慎重になり、恐怖=死の可能性を予見する想像力・センサーが敏感に発達する」のだと思う。怖がりの人、死を想像できる人のほうが、結局それを想像できない人より長生きできるんじゃないか、というような意味で。


今日(正確には昨日)、東長崎駅の踏み切りで信号待ちしてたら、いつまで経っても遮断機が開かないので変だなーと思っていたら、様子を窺っていたカブのおじさんが、「兄ちゃん、ここは諦めたほうがいいよ。ジンシンだってよ」と言伝てて一方通行を引き返していった。
どこの駅、どこの踏み切りで起きた事故がわからないけど、おそらく間違いなく人が死んだのだろうと思う。赤い車両は見えなかったので、東長崎駅ではなかったのかもしれない。
電車に轢かれる=レールと車両の間に巻き込まれると、その圧力と牽引力で人間の身体は「千切れて裏返ってしまう」のだそう。そういった描写が許されない映画やドラマでは、「人体の形を保ったまま、弾き飛ばされて、髪の毛の中から血を流して地面に倒れている」という描写か、「鋭い刃物ですっぱり切られて真っ二つ」という描写がされることが多いようだが、実際には「押し潰されて磨り潰されて千切られて捻られて毟り取られて、同時にいくつもの断片に弾けてばらばらになりながら、車両とレールとホームの間でぐるぐる回されて、ぶちぶち千切れたところがあっちこっちに飛び散っちゃう」という。
新幹線なんかだと、人体は水風船みたいなもんで、パチーンと赤い飛沫になっちゃう、と聞いた。手足の部品なんかが、数十から百メートル以上も遠くまで飛んでいってしまって、学校のプールに浮かんでたなんて話は珍しくない。新幹線じゃないけど、最近も「部品」が電車の屋根だか車輪だかに引っ掛かったまま、数百キロ先の車庫まで連れてかれちゃってた、なんて話もあった。
でもそういう映像や写真も、グロだから、いやさ「見た人がPTSD(トラウマ)になり、その加害責任を報道(マスコミ)が問われることになりかねないから」といった、視聴者保護と加害責任回避のために流されないし、警察側もブルーシートで覆うことを最優先するし。報道は大事故や大惨事、大事件ではヘリからのぞき見するようなことをするわりに、死体を積極的に報道したりはしないし。


死ぬんだよ。人はいつか必ず死ぬんだよ。
死ぬときはたぶん、凄く痛いよ。リセットはないよ。後戻りもできない。一瞬で死ねるとは限らない。ずーっと痛いんだよ。死んだら痛みから解放されるっていう保障もないよ。*4
だから、死なないように痛くならないように、僕らは気を付けなくちゃいけないんだよ。
「全然怖くない」「胡散臭い」というのはまあ、共有してもらえるように書けなかった側の力不足もあるかもしれないけど、「怖がらせてみろ」という豪胆自慢の人というのは実際には長生きしない。箸が転がっても*5怖さを連想できるくらいの人、あらゆるものに恐怖を見いだせる人のほうが、実際には死ににくいんじゃないかなあと思う。できればそういう慎重な人には長生きしてもらって、そのセンサーにますます磨きを掛けるべく、怪談本をたくさん買って読んで貰いたい。生産者としては。

 
 
……それにしても、まだ11月に入ったばかりで、今年はあと2カ月もあるんだけどw、なんとなく「今年出る仕事」がもう終わったかと思うと、まとめモードに入っちゃうんだよなあ(^^;)

*1:昨年の怪コレの時点で既に恐怖箱だったけど

*2:その他の理由としては、怪コレをやってると翌年冬の「超」怖い話の執筆がしんどくなるからw また、新しいことをする余力がなくなるから。

*3:個人的には「怖ければ何をやっても許される」「怖がらせれば勝ち」という考えもまた違うだろうとも思うけど、その考え方は大人の商業主義としては正しいんだろなとも思うw

*4:実話怪談として拾われてくる話には、死後も死んだときの姿のままっていう幽霊の話も少なからずあるし。

*5:折れた割り箸が目に刺さっちゃって死んだ人もいるし。