子供扱いされる社会

久々の時事系の話題。
ちょっとおいちゃったのでどれを扱うにしてもやや陳腐化してしまうので、そうした話題全般を見渡して思ったことなどを覚え書き。


こんにゃくゼリー問題、田母神発言、元厚生次官刺殺事件、毎日変態新聞報道関連、その他もろもろ、最近話題になる多くの事件は、それぞれ全て違ったシチュエーション、違ったニュアンスの事件として報道されているのだけれども、それらの根底にどうも相通じる病理があるような、そんな気がしている。
一言で言っちゃうと、標題にある「子供扱い」。


「馬鹿にされる」という文面には、二つのニュアンスがある。
まず、「バにされる」という読み方をする場合、蔑みを受ける、貶められる、という意味。
そして「カにされる」と、にアクセントを置くなら、聡明な人間・聡明かどうかはともかく普遍的な人間の思考力が奪われ、緩やかに思考不全に落とし込まれていく、という意味。そう、知性を喪失していくアルジャーノンのように。


にされる

まずは、バにされるのほう。
昨今のニュースを全て同じ論理で斬ることはできないし、それはいくらなんでも乱暴すぎる。それは承知している。
のだけど、どうも「おまえらどうせ言ってもわかんないだろ。バカだから。だから要約して教えてやるよ。細かいところなんかどうせ読まないだろ。だから要約した見出しだけ見てればいいんだよ」という感じで上から目線でバカにされて、恣意的な方向付け・味付けを施した後の情報を与えられる、というような。
もしくは、「方向なんか右でも左でもかまわない、なんでもいいからとりあえず怒っておけ。怒りの矛先はいくらでも与えてやる」というような、あからさまな煽動に煽り立てられているというか。
煽っている側は「どうせおまえら、細かいことは気にしないだろ。俺のかけ声だけ真似してりゃいいんだよ」というような感じで、煽られてワケもわからず怒りに身を任せる人々を、バにしている。
同時に、そういう声に身を任せない人、煽りに楯突く態度を取る人々もバにする。「所詮ネットユーザーは」という感じ。
別にネットユーザー優越論を唱えるつもりは毛頭無い。というより、ネットを利用する人間は、今後増えることはあっても減ることはない。相対的に従来メディアである新聞とテレビの利用が減っていくことはいくらでもあるけど。ネットユーザーというのは、別に特別な存在でもヲタでもニートでも、若者だけでもなく、もうそこらへんにいくらでもいる普遍的な存在であると思うのだが、報道側の人々はもしかしたら、まだそう思っていないのかもしれない。
ネット利用者の人数は既にテレビ視聴者・新聞読者の市場規模を越え、大手新聞がバカにしつつも引用する2ちゃんねるの常用利用者数*1ですら大手新聞の読者規模と並ぶか越えている。
なんというか、大手新聞は自分達が蔑んでいる相手が、自分達の抱える読者数より多くなっていることを把握しないまま、いつまでも見下せる相手と思っているのではないか、とか。
もちろん、新聞、ラジオ、テレビをニュースソースとしている人は少なくとも情報受益者の3割はいるし、ネットニュースだって二次ソース(事件の当事者の告白、警察・省庁当局のブリーフィングペーパーが一次ソースであるわけで、新聞・テレビ・ラジオは基本的に記者の主観を交えた二次ソース)である新聞・テレビ・ラジオからの孫引き的三次ソースに過ぎないのだけど、かつてと違って、その気になれば誰でも裏を取ることができるようになってきた。嘘を嘘のまま最後まで漏らさず突き通すのは難しい。そんな努力をするくらいなら、正直でいたほうがローコストだ。
そんなわけで、しかし僕らは「あいつらはどうせバカだから」とばかりに、バにされ続けているのではないか。


僕は政治的には現実主義的判断がきちんとできる政党なら、自民でも民主でもかまわないんだけど、「政治について詳しくわからなくてもいいから、民主党に入れろ」とか「とにかく、なんでもいいからチェンジ」とかそういう、選択理由を明示しないで白紙委任を強要するような所は、ちょっと御免被りたい。「なんだかバにされてるみたいな気がする」というのは、案外誰でも気付くこと。それこそ、本当にバカであったとしてもバにされたことには気付く。


ついでに言えば、それが自分に向けられたものでなかったとしても、他人の悪口を言葉の限りに繰り返す人を横で見ているのは、かなり辛い。人間は悪口を言うとき、顔が歪む。卑しい顔になるというか。
卑しい言葉を使って他人を指弾する人が、果たして正しいことを主張できているんだろうか、と悩む。だから、何らかの検証可能な根拠ではなくて、感情的な悪口をもってして自分の正当性*2を掲げるような主張や記事については、やはり一度立ち止まって疑うようにしたほうがよいように思う。僕の書くそうした事柄についても、「あいつの言ってることは信じられない」と思う人はいるだろうし、そういう人は「だってみのもんたと違うことを言ってるから」ではない、自分なりに調べてみた根拠と照らし合わせた上で自分の考えを決めるのがよろしかろうと思う。
少なくとも、怒りに身を任せてよくわからないまま突き進むのはよろしくない。
それは、

  • 日米安全保障条約の具体的な内容や効果範囲についてまったく知らないのに、周囲の熱気に浮かされて勢いだけで「安保反対」を無邪気に叫んだ学生運動世代*3や、
  • なぜ日露戦争において「勝利」ではなく「早期講和」を結んだのかを理解せず解説もせず遮二無二に政府の弱腰を叫んだ新聞に乗せられてしまった1905年当時の日本国民や、
  • 青年将校の暴走の契機となった5.15事件や2.26事件において、それらの暴走を新聞紙上で擁護し、後の軍部の独走を許す下地を作った朝日新聞の戦争当時の主張を、「青年将校への同情と政府の弱腰への怒り」という煽動をもってなんの疑いもなく受け入れてしまった戦前の日本国民とか、

そういう歴史上の失敗を見るまでもない。
見るまでもないのだけど、煽動を仕掛ける人々は仕掛けられる側の人々をバにしながら、怒りに我を忘れる狂奔状態にすることに生き甲斐を感じているんじゃないかとさえ思えてくる。


僕らが何かに怒りを感じるとか、憤りを感じるとか、義憤を感じるとか、もっといえば怒りを爆発させることに正当な理由を与えて、それを焚きつけようとするような言論に煽られているということに気付いたときは、一度、立ち止まって深呼吸して、煽っている火元をよく見極める必要があるのかもなあ、というような話。



カにされる

次に、カにされる、のほう。
昨今のニュースでは、というかこれはPL法施行以降の現象なのか、ゆとり教育の結果なのか、日教組の活動成果なのか知らないけど、なんだか異常なまでに消費者・子供・受益者・国民(有権者)などを、「子供扱い」しすぎなような気がする。
例えば、僕の仕事分野に近いところで言うと、事件や事故に関連した報道。昔は、テレビに血塗れの犯人だの血塗れの被害者だの血塗れの遺体だのが映ることは珍しくなかったように思うのだが、いつの間にかそうした「血を流す人体」がテレビ報道されることはほとんどなくなった。もちろん、というかむしろ「死体写真報道」のようなものは写真週刊誌などでは激化したこともあったし、現在でもネットを少し漁ればぶよぶよに膨らんだ水死体の回収現場の写真や、交通事故などで外傷性脳挫傷を起こした死体の写真……まあようするに、頭がふきとんじゃって脳味噌が飛び散っちゃってるような写真写真・映像を見ることはできる。
が、そうしたものは、「子供に見せるべきではない」し、他人どころか友人・家族の死についてすらも、「子供に知らせるべきではない」という風潮が広がりつつあるような。
ゲームなどでは「子供の心理に影響を与える恐れがある描写」は、その多くがレーティングやその他の自主規制によって規制されている。
これは、「PTSDの可能性」「そうした可能性を事前に排除しない場合、販売者が責任を問われる」という前提があるため。個人的には、初めての恐怖は、PTSD……かつてトラウマと呼ばれていたものを確かにすり込む、そういった心理的ダメージを与える可能性があるが、むしろそのトラウマ・PTSDは必然性のあるものなのではないか、とも思っている。天然痘の予防に種痘をするようなものであり、インフルエンザに備えてワクチンを打つようなものでもある。
恐怖というのは、心理的ダメージである。そして、一度刻まれた「恐怖」という心理的ダメージは、それが致命的な肉体的ダメージに発展する前に、「以前の恐怖の記憶」を呼び起こすことによって、警戒心をもたらす。恐怖とは、警戒心を呼び起こすためにあり、そうした警戒心を持つための予備的行動を取らせるために、「怖かった記憶」が刻まれる。
熱いストーブの蓋に座った経験のない猫はストーブの蓋を恐れないが、熱い蓋で酷い目にあった「恐怖の記憶」があればストーブの蓋には近付かなくなる。PTSD/トラウマを恐れて未然にそうした「恐怖感、肉体的ダメージに備える警戒心」を喚起するトリガーの生成機会を逸してしまうことは、結果的に「あらゆるモノに対して警戒心を持たない、起こり得る危険を想像・予見できない、自己生存能力の極めて低い人間、楽園でしか生きられない脆弱なイノセンス」を量産することになってしまうのではないか。実際なってるけど。


また、ナイフを使った殺人事件があれば、ナイフコンバットシーンは削除される。
「それを見て真似る子供が出るといけないから」(責任を取れないから)
というのがその大きな理由。先頃の秋葉原通り魔事件ではダガーナイフが*4規制され、その煽りもあって今は折りたたみ式のスイスアーミーナイフも持ち歩けない。
もともと武器凶器になる性質を持っているものは百歩譲って仕方ないとしよう。
最近は綿菓子に割り箸がついていないものが増えているらしい。綿菓子と言えば割り箸じゃなくて、何に付けるの!? という話にもなるが、例の綿菓子の割り箸を咥えたまま転んで割り箸が脳味噌に刺さって死んだ少年の事件を受けて、「割り箸は危険」という理由から、綿菓子に割り箸を付けるのをやめるようになったらしい。*5
もっと最近で言えば、例のこんにゃくゼリー。改善を図った上で販売は再開されたが、それでもなお「危険だからやめろ」という消費者団体がいる。
こうした対応というのは、よく言えば「改善された」「子供の安全を最優先」「慈しみ育てる」「危険を遠ざける」ということなのだろうと思う。
だが、神経質になった上に過保護になっているだけのようにも思う。
保護者や社会が、子供から過度に危険を遠ざけることは、同時に子供自身が危険を認識・認知する機会を喪失するということでもある。
例えば、道を走っちゃ行けないのは転ぶから。転んじゃいけないのは痛いから。痛いのは、もっと酷い怪我をすれば死ぬかもしれないから。
だから「走るな」と言うし、その注意喚起そのものは間違いじゃない。でも、実際に転んで痛い目に遭ってみないと、子供は注意深くならない。
子どもの頃、稀に同級生がいつの間にかいなくなることがあった。
たぶん、事故や病気などで死んだのだと思う。
だが、「引っ越した」「遠くにいった」「家庭の事情」という形で処理され、それらの死が明示されるとは限らなかった。
子供同士の喧嘩で怪我をして帰ってくるなんてことは珍しくなく、友達の頭を殴って自分が骨折したことがあったorz
まあ、この経験によって「頭を殴ると自分が怪我をするので、殴るときは頭以外を。そして、できれば手以外で」という学習をするようになるわけなのだがw 殴られたら痛いし、殴るほうも痛いというのは、殴り合いをした経験がなければわからない。
子供同士の素手での殴り合いなら、力の入れ具合もタカが知れている。コブを作って泣いて帰って鼻血を拭いて終わりだ。
しかし、どこまで殴れば死んでしまうのかわからないまま大人になって、二十歳を超えていきなり「ここまでやったら死ぬ」というのを実感できるのかといえば、たぶんできない。
できないからこそ、加害者になってしまってから取り調べで「まさか死ぬとは思わなかった」というようなことを言うのだろうと思う。彼等はそこまでやったら死ぬということを学習しないまま、ここまで来てしまったということだろう。
「やってはいけない」を教えるに当たって、「やったらどうなる」を身近に目の当たりにすることなく、ただ「いけない」だけを盲目的に指導されたとして、身につかないのは当然のような気がする。
さらに「やってはいけないことそのものを教えない」という現状の、過度な子供扱いは、結果的に「自分で考えて自分で身を守る」という生き物として当然のサバイバリティまでを引きはがしてしまっているのではないか。
子供を慈しむという名分に基づいた過保護は、結局子供の自律自存の障害になっていないか。
子供が保護者の庇護を離れないように保護し続けたのが、現在の「子供扱い社会」ではないか。
本稿2つ目の「カにされる」は、過保護の結果帰着したところなのか。


「そんなこと、言われなくてもわかるだろ。普通」
ここ最近の幾つかの事件の起きた原因や、起きた環境、起きた内容などについて、見る度に同じ感想が真っ先に口を衝いて出た。
乗るなって言われてる窓の上に乗れば、割れるに決まってるだろうし。
年寄りや子供に食わすなと書いてあるゼリーを、読まずに食うのはどう考えたって自己責任だ。
○○○がやってくれて当然で、何もしなくても自分達の生活や利益は守られて当然、という……なんというか、義務ではなく権利だけを主張するような、権利意識肥大のモンスター的な何かが育まれたのは、過保護社会、カになるように育て上げられた結果なんだろうか。


「首を絞めたら息が止まって死ぬとは、誰も教えてくれなかった」
「アクセルを踏んだらスピードが出るとは、ディーラーは教えてくれなかった*6
「ナイフで刺したら死んでしまった。そのくらいで死ぬとは誰も教えてくれなかった」
言われなくてもわかるだろそれは、というツッコミを、もう誰にどう入れたらいいのかわからなくなるくらいやるせない。


僕たちは、バにされてる。
怒らされ、翻弄されないよう、注意深くならなければならない。

僕たちは、カにされてる。
あらゆる危険から遮断され、子供扱いされ、思考能力を奪われないようにしなければならない。


どちらも、「自分で考える」ということを阻害しようとしている。
前者は、報道・センセーショナリズムという利己的な商業主義のため、流行や怒りの共有に身を任せるという快楽のため、「考えなくてもいい、いっしょに怒ればいい」と甘く囁く。
後者は、もっとタチが悪い。善意から発した保護意識により、「考えなくてもいい、考えるまでもない、言われたとおりにすればいい、言われないことは気付く必要もない」と甘く囁く。
自分で考えるとは、基本中の基本であるはずなのだが、現代においてはなんと難しいことなのか。そんなに難しいことだったっけか。


ああ……怪談屋としては、屋上から飛び降りる寸前の躊躇と、墜落していく間の逡巡と、墜死した挙げ句に揚水タンクの中に放置されていた水死体を引き揚げる様子と、その間にそのタンクの中で起きていた変化と、そのタンクの水を使って提供されてきた料理が作られる様子と、それを食べた人々と、そのことを報道によって知らされた人々の、認識の瞬間までを事細かに描写して子供に読ませたいという気持ちでいっぱいになるんだけど、まあそんなことしちゃいけないんだよね。

*1:ユニーク数

*2:というより、自分を棚上げして相手の悪いところを指弾する

*3:団塊世代

*4:もっと昔にはサバイバルナイフやバタフライナイフが

*5:これにはエコwだの、経費削減の口実だのもあるかもしれないけど

*6:ベンツの試乗で200km/h以上出してしまい、街中で通行人をはねて死なせたドライバーの弁。