プロに厳しい時代

今年で42になるから、僕はこの業界に18歳で身を置いてから24回目の年を迎えることになる。10年目越えたときに、「ああ、随分遠くまで来ちゃったなあ」とか思ったんだけど、20年目を越えたときには、越えたことすらすっかり忘れていたw 24年目というのはアニバーサリーとしても半端なので、特にこのエントリの主題ではない(笑)
僕がこの仕事を始めたときというのは、出版業界がいろいろ変わる端境期であったように思う。
例えば、DTPの普及。当時はまだ手引き(デザイナーがエンピツと定規で線を引いて、印刷物の設計図となるレイアウトを考える)が主流で、職人技を持った怪物デザイナーがわさわさいたものだった。少し前の時代に前時代的な写真植字は「電算写植」に変わっていたと思うんだけど、僕の下積み時代にはさらにDTPの萌芽があった。これについては前にも書いた気がするので省略w 
原稿用紙に手書きで書く時代から、ワープロ原稿へ、それがフロッピーディスク入稿をするようになる。編集部への引き渡しも、直接足を運んでいたのがメールになった。
印刷所への入稿は、印刷所からの定期便(定期的に入稿セットを取りに来てくれる)から印刷所直入れになり、バイク便になり、さらにはこれも「すみません、今からメールで送ります」になった。
初期のDTPはQuarkXPress……の前に、「テキストデータ.txtを直入れ」というのがあったんだけど、まあそれはおくとして、いつのまにか時代はQuarkXPressからInDesignに変わった。
InDesignは1.0から付き合いがあるんだけど今はCS4まで出ている。入稿データ形式は.inddのはずなんだけど、最近はPDFで処理されちゃってるらしい。


で。
かつてのプロというのは、こういったツールの使い方を知っている人、使いこなせる人、という意味合いであったような気がする。新しい技術が登場するたびに、高性能=複雑な作業工程が増え、これらをオペレーティングできる、ハイ=オペレーターがプロ、みたいな。もちろん、単に使い方を知っているだけではなく、開発者が想定していないような効果を引き出せるテクニックを持っている、だったり、同じツールを使っているとは思えないような熟練とセンスを持っているだったり、まあどっちにせよオペレーションに精通しているのがプロ、というニュアンスであった気がする。
が、ツールの高機能化+簡便性が高まったことで、別にプロのオペレーターでなくても、そこそこのことができるようになった。そうすると、プロがプロである価値=オペレーションの知識と技術という価値は相対的に下がる。
「どのように使いこなせるか」から「使いこなして何をするか」に、判定すべき基準がシフトするわけだ。*1


同人誌は今や「少部数出版物」の代名詞であるように思う。
かつて、出版物と言ったら何万部も刷って、本屋に置かれるものであったわけだけど、今は数百部、ヘタしたら数十部から製本した本が作れる。そう大した高い金額でなくても、出版に関する高度な知識がなくても作れて、同人誌専門の流通や通販経路もある。即売会まで足を運ばなければ買えなかった時代は過去のものになり、年末の新刊は翌年1月には通販で買える。規模の大小の違いはあるけど、商業出版とさほど大きく変わらない。ここでも、ノウハウやスキルといったものが簡便化して、オペレーションの知識(=ノウハウやスキル)の価値が下がり、「それを使って何をするか?」の部分の重要度が上がってきたことが如実に判る。


同人誌の作成には、プロが仕事に使うツールとさほど遜色のないものが使われている。イラスト原稿を描くために使われるソフト、例えばPhotoshopIllustratorPainter、SAI、その他のドローイングソフトなどは、かつては相当高価なものだったけど、それなりに価格が下がってアマチュアでも手が届くようになったし、数十万、十数万程度なら手が届くハイ=アマチュアもいる。
同人誌によって裾野が広がったことで、そうしたツールを使いこなすハイ=アマチュアは珍しい存在ではなくなった。ツールを使いこなすオペレーターとしてリーチがあったプロの価値は、またひとつ減じる。


同人誌によって裾野が広がったことは、その上層構造にもいろいろな影響を与えた。ハイ=アマチュアセミプロとプロの、技術的な差がだんだんなくなってきた。
「その程度のこと」ならできるハイ=アマチュアは珍しくないし、プロより凄いハイ=アマチュアも決して特別なものではない。雑誌をやっていた時代など、仕事柄同人誌に目を通す機会が長かったのだけど、「レベルが上がっていく個人がいる」というだけでなく、誰かが突破口を作ると、それを模倣したり取り込んだりすることで、全体のレベルが上がる。それは、ソフトウェアの使い方という純粋にオペレーションの部分の問題だけではなく、物語の構築理論であったりキャラクターに与えられたシンボリティであったり注視注目すべき筆記法であったり様々。


市場の拡大と深化、そしてインターネットというツールによって、情報の伝播と共有が高速化するようになったのは今更言うまでもない話なのだけど、これはニュース/噂の伝達だけを意味しているわけではない。
優れた方法論は、凄い勢いで広まり、共有され、そして使い尽くされる。その方法論を最初に考え、我が物としようとした人にとっては、「自分のアイデアが陵辱される」ように感じる人もいるかもしれないw


インターネットというのは集合知*2であると思うのだけど、プロ・アマ問わず、それまでのクリエイターは「自分だけの方法論」を掲げ、それを革新的な自分だけの個性として押し出すことで、その方法論を開発した自分=プロの看板の価値を上げてきた。
ところが、その方法論というのは前述のように凄い勢いで伝播し、共有=真似され、消費される。最初の開発者は、その方法論が優れていればいるほど多くのエピゴーネンの中に埋没していってしまう。
例えば、エピゴーネンの全てがオリジナルには叶わないのだとしたら、それでも最初の開発者が粗製濫造されたものの中に埋もれることはないだろうけど、案外そうでもないというか。
最初に気付いた開発者のそれは、プロトタイプであって試作品であって、後続のエピゴーネンとされる人々に示唆とかヒントを与えるものであって、多くの場合はエピゴーネンの中から最初の開発者のクオリティを越えるもの、さらに拡大し先鋭化させるものが出る。
要するに、青は藍より出でて藍より青しというのが、一子相伝的な直線的上下関係ではなくて、直接顔を合わせない多岐的な相関関係の中から生まれてくる。それによって、最初の開発者は埋没し、追いこされてしまう。
開発した独自方法論を個性という飯の種にしているようなプロはたまったもんじゃないだろうなと思うw 方法論はもはや個性ではなくて、共有消費される技術のひとつになってしまうわけで。


そうなってくると、その方法論、技術のオペレーターであることよりも、オペレーションを用いつつ「何をするか?」という部分に重点が置かれてくる。
ここに至ると、やはりプロとアマ、ハイ=アマチュアの差はほとんどなくなってくる。スキル、能力、センスの点で、プロとハイ=アマチュアの違いを見つけることは難しい。プロを上回るハイ=アマチュアも珍しくない事は既に述べた通り。
では、技術を使って「何をするか?」の部分が、プロとハイ=アマチュアの違いかと言えば、それも実は怪しい。商業流通しているプロの商品を軽く飛び越えていくハイ=アマチュアの作品は、発見するのが難しいだけで決して稀有な存在というわけでもないからだ。


では、プロとハイ=アマチュアの違いはどこにあるのかというと、それで(または、それだけで)飯を食う覚悟があるかどうかかな? と思われる。編集者的に言えば〆切を守る覚悟というかw 品質はそれなりのものができて当然というか、プロとハイ=アマチュアの間に品質の差がなくなってきつつあるわけだから、自ずとプロとハイ=アマチュアを分けるのは〆切への覚悟と、それだけで飯を食う覚悟ということになってくると思う。
それだけで飯を食おうと思ったら、常に品質が高く、常に飽きられず*3、常に〆切を守れないといけなくて、そこだけがプロとハイ=アマチュアを分けているといえる。
斯様に、これだけで飯を食っていこうというプロの方々の覚悟は重く、尊敬に値するなーと思う。
出版の場合、作家、漫画家、イラストレーターは、その工程の最重要/最初期に位置するが、ここが遅れたり品質を損なったりすると、その後に続く編集校正校閲デザイン製版印刷営業流通小売りといった全てに影響を及ぼす。印刷用紙や印刷機や配送トラックは予め配本日に合わせて「予約」されているものであるし、出版営業は発売日に発売されることを前提に営業を行っているわけだし。
だから、「品質と納期を同時に守れること」というのがプロに求められる最低限の条件で、「売れること」が続かなければ次のチャンスが廻ってこなくなり、その上で「やりたいこと」「毎回違うこと」と重なっていく。


その反面、

  • それだけで飯を食わなくてもいい。他に本業がある
  • 飽きられてもいい。他にも順番待ちしている別の人がいる
  • 〆切に汲々としなくてもいい。原稿ができてからでいい

と条件を緩和すると、品質に限ればプロを凌駕する人は珍しくない。プロはプロであるが故に、〆切までに品質を高めなければならず、それを過ぎたら妥協しなければならない。
妥協の機会を先延ばしできる分、ハイ=アマチュアはプロより有利だし、また「それで食えなくても他に本業がある」という心理的余裕がある。それだけで食べていて、しかも後がないwプロは羨ましがると思うw
そういったハイ=アマチュアは、幸いにしてこれまでのところは同人誌で活躍するといったあたりに機会が制限されていた。また、スポット的に商業の世界で頭角を見せつつも、プロの世界に汲々としないが故にプロがその地位を脅かされ続けることも少なかった。


が、この十年くらいで、そのあたりの事情は変わってきているように思う。永続的な作家でなくても、その1冊で当たりが出れば出版社としては困らないわけで、決してプロではない個人がwebなどを通じて発表してきたものが書籍化され、それがブレイクするケースは珍しくない。
例えば、電車男生協の白石さん嫌韓流やわらか戦車、オタリーマン、最近だとヘタリアも同様だ。*4この辺りはメガヒットになり社会現象にもなっているけれども、出所は元々は「プロの仕業」ではない。第二弾はなかなか出にくいけれども、話題になるものも珍しくない。正直、本職の仕事をしていても、10万50万を超える部数を、単発本でたたき出すことはそうそうできるものでもない。*5


このへんの話というのは、やっぱ「それだけで食べている」というか、「それだけで食べなければならないプロ」にとってはおっかない話で、才能だとかそういうものが枯渇した途端に「ただの人」になってしまう。才能を尽くして開発した「個性」もまた、評価された途端に他人に使いこなされてしまう。
そういう環境下にあるが故に、「それでも新作を書き続ける」「個性以外で勝負ができる」そして「それが売れ続ける」「同じ名前で同じ価値を認知され続ける」というのが、ホンモノのプロなんだろなー、と思う。同業者、または近接職へのリスペクトとして。


その上で、僕としてはプロと能力的には大きな差があるわけではない、ハイ=アマチュアのための機会創出ということに力を注ぎたいなと思っている。モノカキwとしては「自分を越えるライバルを自分の手で見つけ出して世に出す」ということになるわけだから、自分のパイをどんどん狭めていくことにしかならないし、少ないパイの死守に力を注いでいる先行者たるプロには「余計なことすんな」と叱られそうな気持ちでいっぱいいっぱいなのだけど、読者の視点からすれば「誰が書いた」ということよりも「どう書かれている」ということがクリアされていれば、そうしたものがより多く登場し、選択肢が増えるということのほうが価値があるんじゃないかな、と思っている。
もちろん名前は「評価した人を、次にも見つけるときのタグ」であるわけで、もちろん重要だ。が、名前ではないタグが付いていれば済む話かな、と思わないでもない。


プロを凌駕する名無しさんの登場は、プロにとって脅威である。
名無しさんが継続性を重視していないことは、プロにとって救いである。
が、ひっきりなしに現れる【新しい才能】と対抗し続けることは、やはりプロにとって苦痛であろうと思うし、せっかく見つけた自分だけのやり方を、リスペクトされて越えられてしまうのもたまらんだろうとは思う。


が、よいもの、おもしろいもの、凄いもの、残したいもの、誰かに教えたくなるもの、そうした価値あるものを作る才能がある人が、必ずしもプロでなければならない、ということもないわけで、どうにかして「プロと渡り合える機会」「出口或いは入り口或いは舞台」を用意していきたいと思う。


そんなわけで、4年目の超-1まであと1週間とちょっと。
各々方、準備できてますか?

*1:例えば、作家だったら「ワープロソフトを使って原稿をデータとして書き、メールで送る」みたいなのはもはや当たり前になっている。でも、ワープロソフトを使う、それをメールで送る、というのはちょっと前までは作品を書くという才能とは別個の「技術」であったわけで、作品を書く才能そのものに影響を与えないスキルであった。ところが、現代ではそれを使いこなせず「紙に万年筆で」という人達は、よほど才能がない限り消えていったか、技術への順応を強いられた。

*2:知識、知恵、知性

*3:つまり、常にプロは違うことができなければならない。十年一日のものは、現代にあってはあっという間にハイ=アマチュアによって吸収/消費され、商業出版とは別の手段で再発信されてしまうからだ

*4:初音ミクなどを用いた楽曲の場合、ツールはプロの開発したものだけど、それを用いて作られた多くの楽曲を実際に作っているのはプロではない。まだ単独楽曲として社会現象になるほどの認知度を持ったものは出てきていないけれども、いずれあるかもしれない。

*5:賞を取って自作が映画化されたこともある賞作家であっても、常に同じ部数が出せるわけでもなくて、とある有名SF作家さんの新刊の部数を聞いて血の気が凍ったことがあった。もちろん、多くて、ではない