本日、嘘の日

4/1はエイプリル・フール
ドキっとして、わくわくするけど、がっかりはしてもちょっと安心する嘘が、「よい嘘」であるらしい。
また、このエイプリル・フールに合わせて「いつもとちょっと違うことをする」というサイトも多い。なんでそんな習慣が広まったんだろう、と記憶を振り返ってみると、パブリックな媒体が公然と嘘を吐くwというお遊びをしていた例として思い出されるのは、BBCによる4/1の嘘ニュース関連であったように記憶している。日本国内のニュース/報道がまだマジメ(というより堅物)だった頃、イギリスでは国営放送がそんな嘘を報道するのか、と随分感心した記憶がある。まあ、モンティ・パイソンの国だし、アリだろ。イギリスだし。
インターネットの普及で、blogや様々な企業がネットに「一次ソース発信媒体」を持つようになったことで、このへんの「4/1のお遊び」が広く行われるようになったと言っていいと思う。
この日ばかりはオンラインニュースサイト、Google(2009年はGoogle川柳とかガチャピンmapsとか)、ニコ動などの大手サイトなどが、一斉に「ハメを外す」行動を取る。
なんというか、ここで何か嘘を吐いて人目を引けなければ、クリエイターかコンサルの査定に響くんじゃないかというほどの真剣振りというか、これはこれでマジメっぷりというか。
その割に、社会の木鐸の皆さんは相変わらずそういうフランクさからはほど遠いのは、「冗談が通じない人」を相手にしているからか、さもなければ「冗談を言わない人」が作っているからか、どっちなんだろう。


もっとも、ニュースが常にマジメで嘘がないのであれば、4/1という「逆説の日」の嘘はお遊びとして楽しめるかもしれないけれど、最近どうも普段から息をするように嘘を吐くようなニュースが増えているからか、どうも今日だけの嘘というのが空虚に感じられるような気がしなくもなくもないような。
要するに天の邪鬼なんで。なのでエイプリル・フールには乗りません宣言。*1


さて。
「嘘を嘘と見抜けない人には、(この掲示板=2ちゃんねる)を使いこなすのは難しい」
というのは、2ちゃんねる元管理人*2の「ひろゆき」氏の言葉。2ちゃんねるを指しているけど、今となってはインターネットと置き換えても通じる。
要するに、「そこにある全ての情報が正しいという保証はどこにもなく、そこには明らかな嘘も混じっている。しかし、嘘を真に受けず、嘘を嘘と見抜いた上で、その嘘に乗っかって遊ぶ、またはその嘘を暴いて楽しむ、というゆとりとリテラシーがない情報無垢な人には、2ちゃんねるやインターネット全般のような玉石混淆の場を活用するのは難しい」というようなこと。要するにって前置きしながら長くなるのは御愛敬。


元々、新聞やテレビ、そこに登場するキャスターや識者の言葉というのは、「抜きんでて正しい」「より詳しい」だから盲従しても安心、という前提の元に成り立っていたのだと思う。
この「抜きんでて正しい」「より詳しい」の根拠というのは、「より情報源に近い」または「過去からの蓄積情報を多く独占している」から、と言えるわけで、情報の扱い量と蓄積量がまずあって、それがあるが故に「情報を解析する能力もあるはずだ」という信頼から重用されてきた。今でも「○○○問題に詳しい×××教授」のような形でコメントが紹介されたりするのは、報道内容や結論に信憑性を持たせたいがためで、門外漢の視聴者読者は「専門家が言うならそういうもんか」とそのまま深く考えずに受け入れてしまったりする。
この中に嘘があっても、専門家が嘘を吐くはずがない、という前提から踏み出せない人は、そのまま受け取ってしまう。


ネットの普及は「報道の嘘に対する、事実・真実の発掘」を促進した。
これは永らくマスコミが独占してきた「情報の扱い量」と「情報の蓄積量/独占量」という特権に、一般人も関与できるようになった結果、マスコミが扱わない有用情報を広く共有できるようになった、ということだ。
しかし、「嘘は嘘と見抜けない人」は、その中にある嘘やまがい物の情報についても、「ネットに書かれていたから真実に違いない」と真に受けてしまう。つまりは、信頼を寄せる根拠が「テレビ、新聞は嘘を吐かない」から「ネットは真実しかない」とすげ替えられただけの話で、自分で「嘘ではないかどうか」の確認を端折ってる時点で、やっぱり嘘を嘘と見抜けていないんじゃないかな、と思える。


それじゃ、メディア・リテラシーとか嘘を嘘と見抜くと言っても、何をどうすりゃいいのさ、という話になる。用語はご立派でも、リテラシーの具体的な対応法は咄嗟に頭には浮かばないものだ。

一次ソースに当たれ

よく言われるのは、「子引き、孫引きにくらまされるな」ということ。新聞やテレビから様々なニュースを得ているけれども、実は新聞やテレビは「一次ソース」ではない。刑事事件なら多くの場合は「警察発表=記者クラブが警察から貰う資料」が一次ソースだし、現在の芸能ニュースでは一次情報は芸能人のblogがそれに当たる。企業発表のニュースの場合、企業側は自分達の都合のいいタイミングでニュースが流れるように、自社サイトにプレスリリースを発表する。これが一次ソース。省庁発表のニュースなら、その管轄省庁のサイトのリリースが一次ソースで、政党の声明ならこれまたその政党の公式サイトのリリースが一次ソース(または一次ソースに近いソース)と思っていいだろう。
それを拝借して纏め直した時点で、新聞やテレビから配信されているもの(携帯ニュースなども同様)は一次ソースじゃない。
おや? と思ったら一次ソースに当たることだ。

見出しと本文は内容が違う

これ、前にも書いた話だけど、最近のニュースは見出しと内容が180度逆だったりすることがしばしば起こる。よく読むと別におかしくもなんともないのに、見出しだけ見ると非常にショッキングでセンセーションなことのように思い込まされてしまう
現代人は皆忙しいので、見出しだけ見てニュースを知った気分になる。
昔いた会社の社長が「忙しいときの速読術は、本の目次だけ読む」「電車の車内吊りだけ見る」というようなニュース獲得術を奨励していたことがあったのだけど、今思えば、それは目次の見出しと本文の趣旨が一致しているとか、車内吊りの見出しと本文の結論が一致している場合――元の情報が信頼できる場合だけに通じるネタで、元の情報が信頼できないような場合は致命傷になる速読術だったんだなあ、と思う。
特に忙しくて、見出しから本文内容を読まずに洞察する力があることを自負している頭のいい人ほど、この手の「見だし詐術」に引っ掛かっていたのではあるまいか。
見出しを鵜呑みにせず、本文をきちんと当たること。これ大事。

本文の、感情を刺激する修飾語に気を付ける

同じ行為に対する説明でも、どのような修飾語を使って説明されているかで、そこから受ける印象はおよそ違う。
つい最近も社民党福島瑞穂議員が民主党小沢代表と自民党麻生総理それぞれの問題について触れたことを紹介する記事で、「小沢代表に注文を付け、麻生総理を批判した」とあった。言ってる内容はどちらに対しても大して差はないのだけど、小沢代表向けは「注文」で麻生総理向けは「批判」。注文を付けられるというのは、頑張ってくださいよ、しっかりしてくださいよ、的な応援のニュアンスを含み、批判されるというのは、まるでダメお話にならない、という拒絶のニュアンスを含む。
他にも「説明した」と「釈明した」では受ける印象が違うし、「力強く発言した」と「気色ばんだ」ではオロオロ感が違う。
つまり、記者が読者にどういった感情を持たせたいか、誰の視点、誰の立場を補強したいのかによって、感情を刺激するために用いる修飾語は変わってくる。
新聞記事は特に主語がない文章が多いので、新聞記者自身の感想や願望が、世論であるかのような誤解に誘導されやすい。
「物議を醸しそうだ」「問題を呼びそうだ」などの結びの場合、まだ物議を醸してないし問題を呼んでもいないけど、そうなって欲しい、という記者の願望が書かれているに過ぎない。
これも洞察力のある人ほど引っ掛かりやすい詐術なのではないかと思う。

その人は他にどんな発言をしているか

専門家の発言とか、○○○団体の代表といった人の発言というのは、聞いたこともない専門家であるほど、その裏が取りにくい。専門外の分野であれば尚更だ。
が、最近は便利なものもあるもんで、「専門家の○○○さん」とか、「○○○を守る会」などの個人名・団体名を検索することで、それらの発言者のその他の発言を閲覧することができる。
専門家の○○○さんを調べていくと九条の会世話人だったり、革命的○○○組織の支援者だったり、市民運動団体の○○○を守る会の連絡先を調べたら、所在地住所に別の市民運動団体の○○○の地方自治参政権を獲得する会が同居していたり、九条の会支部だったり、どこぞの議員の事務所が同じ部屋に共存していたり――なんてことがぞろぞろ出てくる。
匿名の発言にあっては「誰が言ったか」ではなく「なんと言ったか」という感じで発言内容を吟味すべきなのだけど、肩書きや個人名、所属団体名を出して発言されている場合、発言内容そのものではなく「それを誰が言っているか?」によって、どういう趣旨の結論を促したいニュースなのかを透かし見ることができるようになる。
匿名記事や匿名発言であっても、「誰の意図を代弁しているか」または「誰しか知り得ない情報に基づいて発言しているか」、「どういった趣旨の意見形成を狙っているか」などから、逆にその発言主体や意図を遡ることができたりもする。言われた相手がドキっとするようなピンポイントの誹謗を狙うと、逆に言われた側も「それを誰が言っているのか?」を容易に探り当ててしまうことができるようになる。ニーチェ言うところの「深淵を覗くとき、深淵もまた我々を覗き込んでいる」というアレは形而上的な意味以上に直接的に正しいw

また、「同じ人物が以前は何て言っていたか?」を時系列順に調べ直してみるのも面白い。鳩山幹事長はなんであんなにその時々で言うことが違うんだorzという面白さを発見することもできるし、これが映像で残ってたりすることもあるのでバカにならない。いやあ、便利ですね。

声の大きい世論は疑え

そして、あちこち見て回った上で、回りを見回して「みんながそう言ってる」と思うと安心してそれに乗っかりたくなるのが人情というもので、あちこち見回す工程をすっ飛ばして「みんながそう言ってるから」でそこに寄りかかってしまうと、やはり引っ掛けられてしまう。
「声の大きい発言」、「発言数の多い意見」は、一見すると多数の支持を得ているもののように見える。前者は有名ブロガーの主張だが、後者はもしかしたら一握りの工作員が不特定多数を装って自作自演行為をしているかもしれない。
前者、たとえばちょっと前に話題になってた「きっこ」などのように、「きっこが言うならきっと本当」と考えナシに盲信したら、結局それは何も疑っていない時点でアウト。
後者、ピックルネット内情報工作による世論形成というのは、都市伝説ではなく果たして本当にあったんだろうかとも疑ってきたけど、祭りが始まった昨日から今日に掛けて、いつもの掲示板はホントに凪一色wwww
「そんなものは実在しない」と都市伝説を一蹴するのが難しくなるほどの状況であるわけで、これはもう状況証拠から言って、「声の大きい世論を自作自演する行為」というのは実在したと言わざるを得ない。*3
つまり、「同意を促すようなもっともらしい世論」や「声の大きい世論」は、煽動工作の可能性があるので疑っておいたほうがいい、ということだろうか。
「みんなそう言ってるよ?」という一言ほど、心ざわつかせなおかつ信憑性の低い煽動はないわけで。


とりあえずざっと思いついた「嘘を嘘と見抜くコツ」はこんなところ。
もちろん、このblogでも繰り返し触れてきた話題だし、このblog以外でもっと的確簡潔に説明できているところもあるだろうから、これは後で自分で読み返して他のエントリーを書くときのネタにしかならないw
ああでも、メディアリテラシーネタで一冊本書きたいよなー、という野望はあるかもw できれば小学生向けでw


将来、騙されて酷い目に遭ったとき、責任を追及できても賠償はされないことのほうが多い。泣き寝入りになってしまうことを悔やむ前に、騙されないような習慣を身につけていくしかないことを考えれば、初期教育は早いに越したことはないよな、とか思うのだった。

*1:準備するヒマがなかったw

*2:最近、権利譲渡したので

*3:スレの冒頭に必ず張られる無意味なコピペだとか、反論者に対して「ネトウヨ」「ヨット右翼w」などとレッテルを貼る発言者だのというお馴染みの燃料達が、今どこの板に行ってもどこのスレに行っても見かけない状態になっているらしい。僕の出入りする幾つかのそういう喧しいのが常態の板ですらそうなっていて、恐ろしいほどのべた凪となっている