イタリア地震

100人死亡、多数生き埋め=壊滅した町も、1500人負傷−伊地震時事通信) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090407-00000002-jij-int

地震の規模は2003年の宮城地震とほぼ同規模、同深度だったらしい。
が、地震がほとんどない地方だったこと、歴史的遺物が多く残る古い街だったこと、家も古い造りものが多かったことなどから、既に150人を越える死者と不明者250人、1500人を越える負傷者、家を失った人が数千人、避難民が5万人以上出ているのだそう。



僕は鯨を食む者なので、グリンピースやシーシェパードの思想とは大変相容れないのだけど、グリンピースやシーシェパードの活動を支えている*1のは、欧米の企業・個人による寄付である。この習慣は欧米というかキリスト教圏における教会への寄付などと通じるもので、寄付を受け付けてとりまとめるのが必ずしも教会ではなくなった現代でも、環境保護やら動物愛護やら難病研究やら交通事故遺児やら、あらゆる社会的活動への貢献として、寄付を行う習慣が広く行き渡っている。
アメリカなどでは政治家や高収入の上流階級は、「寄付をしないと尊敬されない」という気風もある。カーネギーなどかつての大富豪が「成功によって得た富を社会に還元するのが成功者の義務」という規範を示したことが、富裕層に対する社会的な尊敬の基準としての「社会への還元としての寄付」という美習を生んだのだろうと思う。
かつてのクリントン政権時の副大統領で、アメリカのインターネット整備推進の立役者だったアル・ゴアは、「寄付額が少ない」として尊敬されなかったのが、後の大統領選落選の原因とも言われた。また、世界一の金持ちとして知られるMicrosoftビル・ゲイツは、実業から引退した後の活動については、基金設立と寄付などによる社会貢献活動を主としている。成功者は義務として社会に還元せねばならず、また特に利益を生みにくい分野*2への寄付が良いとされるようだ。
アメリカではこうした寄付は税制上の特例が付くようで*3、個人としてではなく企業として「社会貢献」のために寄付を行うことが、社会そのものによって促されている。
強制的に徴収して再配分される税金と比べて、その用途がはっきりしていて、提供者が特定用途を選べるという点が違うのかもしれない。



イスラム教圏には喜捨という概念がある。善行5行のうちのひとつで、ザカート、サダカとも言うらしい*4が、ここでは喜捨として一括で扱う。
これは「富める者は貧しきものに与えなければならない」というイスラム教における社会保障システムとも言うべきもので、強制になっているザカートのほうはイスラム法上の税制に相当するらしい。
サダカのほうは「成功者、金持ち、持てる者は、貧しい者を救済することで善行をしたことになる」という、欧米の寄付の概念に似たものと言える。
必ずしも「富裕層から貧困層への富の再分配」とは限らないそうで、困った家庭が出たらその隣近所が少しずつ金や物を集めて、その家に届けて救済するというようなことも、喜捨に入るようだ。
日本で言えば「困ったときはお互い様」って奴で、昔は味噌醤油の貸し借りや子供の面倒を見るのと同じくらい、宗教の関与なしに普通に行われていた。それと実質的には同じだが、アラーが介在する点が違う。このへんは後述。


日本では神社や寺に鳥居や仏像などを寄進奉納するという習慣がある。このとき、氏子や檀家など寄進をした者の名前が刻まれ、「○○○の寄付によって作られた」ということを明記するようになっている。これは欧米圏の寄付でも同様で、カーネギーホールのように寄付を行った者の名前が付けられたりする。*5

寄付といえば「あしながおじさん」を思い出すのだが*6アメリカの孤児扶養寄付制度の中には、寄付をした者の名前を明かさない、というものがある。
そういえば、寄付じゃないけど、肝移植、腎移植や角膜移植、心臓移植などの内臓移植では、ドナーの正体を遺族にも患者にも原則として明かさないらしい。これはいろいろな理由があるのだろうけど*7、寄付・寄贈は損得と切り離されたものであるから、ということの延長にあるということでは、あしながおじさんの話となんか通じるものを感じる。


イスラム教圏の喜捨の話に戻ると、喜捨は「それを誰がしてくれたか(誰が出資したか)」というのを明かさないのが普通なのだそうな。税金の場合、税金を国に預託して、国がそれの用途について再配分する、という考え方になるものだが、イスラム教における喜捨は富裕層、ゆとりがあるもの、或いは「ゆとりはないが、善行として少しでも分け与えることに与すること」によって捻出された富*8は、一度、アラーに寄進される。それが改めて「アラーによって貧しいものに下され、貧しいものはアラーによって救われた」という形を採る。このため、「誰が金を出したか」というものは出ない。
もちろん、そうは言っても現実としては「仕事をたくさんくれる人」なり「貧困層を救ってくれる人」なりという形で、富裕層は地域部族からの尊敬を受けることになるのだけど、建前としてはそういう形を採る。
このため、イスラム圏富裕層の寄付で作られた施設などには、原則としては出資者名は付けられたりはしないのだそうな。


名乗らず、恩に着せず、弱き者を救う。
実際にはそうそう理想通りはいかないのだろうし、「金を出したのだから何らかの便宜を図ってほしい」という下心があったり、「せめて名前を残して欲しい」とか「感謝して欲しい」という気持ちが出てしまうのが人間というものだ。まあ、それは仕方ない。
日本にも「寄進」という概念はあったはずなんだけど、なんだか近年「寄付」や名乗らずにする同様の行為については、美習ではなく偽善、そうでなければ怪しい市民団体を経由して何らかの別の使い途に転用されてしまうのでは、という恐れを呼ぶようになった。ここで扱う寄付とは違うが、政治献金なども「桔梗屋がお代官様に送る金の饅頭」と同じような、汚染金という印象になってしまったことから、寄付という行為そのものに悪印象を持っている人も増えている。
さらに昨今の経済状況では、他人に施しをしている余裕なんかない、というのも正論といえば正論だし。
ここ数年、「美しい」とか「良いこと」とか、そういう本来ポジティブな意味を持つ言葉が、片っ端からネガティブなニュアンスに塗り替えられてしまったこともあって、そういう美習はどんどん廃れていってしまうんだろかと思わないでもない。


「情けは人のためならず」というのは、「情けを掛けるとその人のためにならないから、掛けないほうがいい」という意味と「情けを掛けるのはその人のためではなく、巡り巡って自分にいつか返ってくるものだから」という意味がある。本来の意味は確か後者だったと思うが、今は前者もアリになっているらしい。


日本国内に目を移すと、国内各地で起こる震災などに、しばしばボランティアとしていろいろな手伝いに行ったり、義捐金や救援物資を送ったりする人々がいる。「情けは人のためならず(後者の意味)」の典型でもあって、日本はいつどこが被災地になるかわからないので、震災被害は他人事では済まない。明日は我が身かもしれない。だから、「いつか返して貰うことになると思うので」という善意と実利の入り交じったw意識からボランティアに関わる人もいる。そして、一時の善意の人よりも、そういう意識の人のほうが長く続いたりするのだそう。
新潟地震のときだったか。静岡からボランティアに来ている人たちが、かなり長く現地に関わったのだそうで、彼等は口癖のように「次はウチがお世話になるかもしれませんから」であった。
最近静岡は大きな地震に見舞われてはいないけど、富士山、忍野八海の県東北部、修善寺など伊豆半島全般などなど、いつ何があってもおかしくない震源の宝庫でもある。
おかげで、子供の頃からやたらと災害避難訓練が多かった。小中の頃には年に何度も抜き打ち訓練もあったような……。防災設備や物資備蓄、震災対策なども群を抜いて進んでいるというような話を聞いた。まあ、「東海大地震で静岡壊滅!」*9と言われ続ければ、そうもなるわなw
その割に致命的な大地震はここ何十年かは起きていないけど、「いつか必ず来る」ものだと思ってるから、やっぱり他のところに先にきちゃうと「次はうちかも、次はうちかも」という気持ちが強く出て、他人事ではなくなってしまうのかもしれない。同県人として理解できるw


そんなわけで、イタリアが大変らしい。
被災経験があり、ボランティアや有志の義捐金などのお世話になった経験がある人々は、たぶん身に染みてるだろうと思う。
日赤はまだイタリア地震の寄付受付を開始していない。
日本ユニセフ協会はやめといたほうがいい。


追記:

在日イタリア大使館(義捐金受付)
http://www.ambtokyo.esteri.it/Ambasciata_Tokyo/Archivio_News/Terremoto_Abruzzo.htm

*1:というより、GPやSSが活動資金を募り、食い物にしている

*2:社会保障、医療、芸術が多く、技術発展、環境問題も近年これに含まれるようになった

*3:日本にも類似の特例があった気がするが、政治献金は「寄付」には含まれない。

*4:ザカートが強制的なもので、サダカが自由意志のもの

*5:余談だがイギリスにある戦車関連の軍事博物館には、露天展示されていた戦車を屋根の下に入れるため、日本の田宮模型の寄付によって作られたホールがあるのだが、これは「タミヤホール」と命名されている。プラモの金型を作るための取材や調査などで協力してもらったことへの恩返しとして行われた寄付に対して、タミヤの名前を永久に残すとしいう返礼として付けられたものなのだそうな。この辺りは「田宮模型の仕事(文春文庫)」に詳しい。

*6:これはラストであしながおじさんの正体が明かされるけどw

*7:例えばドナーが金銭的要求をすることを避けるためとか、逆に患者側が過度な謝礼をすることを避けるためとか。それが善意からであっても、臓器売買の先鞭を付ける形にならないように、という配慮からだと聞いたことがある

*8:金、ラクダ、食糧などいろいろ

*9:今は東南海、南海地震の危険のほうが高いとされている