本日、衆院解散

そんなわけで、日本の政治は次の局面に入るらしい。


僕のスタンスは「初めに安全保障ありき」であるわけで、戦争或いは侵略を受けない、軍事力による恫喝を受けない、それらが満たされて初めて健全な経済活動が可能で、民間企業の健全な経済活動によって得られた収益(税収)があって、初めて社会的な資本の充足が可能で、同時に様々な社会保障、教育、文化保護、技術開発援助*1なども可能になっていくのではないか、と思う。
「平和」であるのが望ましいが、それは究極の理想であって現実的ではないので、せめて「安全」であることの努力は怠らない社会であってほしいというか。特に、国内法が適用されない他国との間での安全を獲得するための政策施行は政府(内閣)の専任事項なのであるから、そこんところに空手形ではない政策を掲げられるところを、まず第一に選びたい。それ以外のものについては、ある意味次善の課題。
安全保障というのは、「取り越し苦労」なくらいがちょうどよいわけで、どういう判断をするかわからない相手、或いは価値観が自分とは違う相手に、自分と同程度の常識や判断を求める=相手に甘えるのは、非常に危険であろうと思う。*2


かつて、ハイジャックが有効な政治取引手段と認識されるようになったのは、よど号事件あたりかららしい。それ以前のテロは攻撃が難しい政府要人*3を爆殺するようなものだったのが、これ以後、事前に保護するのが難しい民間人・民間施設*4が狙われるようになった。
それ以前の常識では考えられないことだったが、世界は変わった。


それ以前は航空機をハイジャックしても「交換条件を提示して取引をする」くらいの活用しかされなかった航空機ハイジャックは、進化を遂げる。
それでも、大韓航空機事件のときだって、犯人は自らは逃げ延びていた。
しかし、911同時テロ以降、「航空機を乗っ取って突入させるテロ」というのは実現可能であることがわかった。
誰も、そこまでするとは思ってもみなかった。技術的に可能だとしても、「まさか自分の命を犠牲にして」と思っていた。
自分ならやらないことだから、相手もやらないだろう。
そう考えていた。しかし、犯人に覚悟があれば可能だということがわかってしまった。
それ以前の常識では考えられないことだったが、世界は変わった。


同様に、自分の価値観や自分の判断ではまさかやらないだろう、相手も同様だろう、と考えて、相手の判断に甘えてしまうのは、価値観が異なる相手と接する上では非常に危険だ。
だから、安全保障を考えるときは、「相手の判断に甘えない」「相手が自分と同じ価値判断をすることを期待しない」で考えなければならない。自国が戦争放棄憲法を持っていようが、自分が専守防衛を掲げていようが、相手も同じだと考えてはならない。そして、我々が自国以外の憲法や法律について詳しくないのと同様に、他国や他の勢力の多くは、こちらの都合、こちらの事情・法律について、それほど詳しくはなく、また彼等自身がしようとしていることを、相手もしようとするはずだ、と考えている。
安全保障は疑心暗鬼の上に成り立ち、徹底的に相手を信用しないことで成り立つ取り越し苦労なのだと思う。取り越し苦労で済むならそれに越したことはない。


相手の約束を鵜呑みにしてしまう人のいい考えでは、安全を維持することは難しいのではないか、とも思えてくる。
故に、友愛を掲げることだけで、誰もがその道先に祝福の薔薇を撒いてくれるはずだと信じて疑いもしないという案には、どうにも同意しかねる。


期待通りにすべてがうまくいく、というような夢は見ない。
常に最悪を念頭に置く。
そういうスタンスでいく。

*1:順不同

*2:例えば、今国会では自民党民主党に対して、「政党としての常識」や「政党としての責任感」があるだろう、という過度な期待を続けてしまった。その結果、「ダメなものはダメ」という、究極の議論拒絶を押し通す民主党によって、幾つかの急がなければならなかった政策が2カ月以上の施行遅延や廃案に追い込まれている。つまり、価値観が真っ向から異なる相手には議論は通じないし、相手の都合をこちらが理解しても、相手にこちらの都合を理解する気がなければ、全ては相手の言いなりになるしかない、ということになる。そして、そういうやり方を貫いてきて、慣例として作ってしまった以上、民主党はまったく同じやり方を野党になった自民党にやられること、政権批判(というより、抜け駆けとスタンドプレーとスクープ主義)をレゾンデートルとするマスコミにしてやられる覚悟をしなければならない、ということでもある。

*3:ハードターゲット

*4:ソフトターゲット