日本人は優しくて親切

お国柄というか、その土地に暮らす人々にはそれぞれ個人毎の性格の違いがある一方、歴史が生んだ共通性質とか、風土が生んだ共通性質というものがあるんじゃないかという気がする。
一般的な言葉で言えば「国民性」という奴。これは単純に共同幻想に過ぎない、という意見もあろうけど、僕は風土によってある程度の性質の傾向が生まれてくることは、あまり不思議でもないと思う。


例えば、乾燥していて湿気が少なく気温が低めに推移する大陸性の気候風土だと、ものが腐りにくい。乾燥しやすい。だから、生物をそのへんに放置しておいても腐敗しにくいので、衛生感覚は緩やかな*1ものになる。衛生感覚のユルユルさは、「強制される秩序への帰順意識」をもユルユルにする。無理にそれをしなくてもなんとかなるなら、しなくてもいいじゃないか、という考え方が支配的になる。故に、そういった人々に対しては「より強い強制」が必要になるので、統制を掛ける側、秩序を維持する側=権力者側は、より強い処罰を強要することで、ユルユルな人々を飼い慣らす、という考え方が支配的になる。


例えば、暑くて湿度が高い南方の熱帯性気候風土。ここだとものは腐りやすいが、食糧の獲得は豊富になる。ちょっと働けばすぐに食べ物が手に入るので、財産の蓄積にあまりあくせくしなくなる*2。食べ物は例えば独り占めしても一人が食べきれる分量には限りがあり、しかも財産=食糧の貯蓄があまり意味を持たないので、よく言えばラテン系、悪く言うとその日暮らしになる。食糧が手に入りやすい=共同体を構築する必然性が低くなる、その日暮らしでもやっていける、というのが常態化すると、秩序の必然性が低くなるので秩序はユルユルになる。


例えば、氷に閉ざされた酷寒の地。そういうところでは、気を抜くと死ぬ。酒で暖を採らなければ死ぬし、泥酔して外で寝たらすぐに凍死する。食糧は冷蔵保存しやすいのだろうが、そもそも食糧が手に入りにくい。故に、「如何にして越冬するか?」が課題となる。規律・秩序を徹底しないと死に直結する。故に、過剰なほどの秩序遵守が社会通念として発達しやすい。その秩序の中で「如何により多くを得るか?」が生存性を左右することになるので、出し抜く、貯め込む、といった意識は正当化されやすくなる。


例えば、蒸し暑くて湿度が高くものが腐りやすいけれども、そうかといって食べ物が絶えず手に入るほど豊富でもない風土。食料を備蓄しなければならないが、備蓄するには腐敗しないように気遣わなければならない。また、備蓄しなくても腐ってしまうケースも多く、俄然、衛生感覚に鋭敏になる。むしろ強迫神経症気味になる。少しでも規定にぴっちりと、かつ少しでも余裕を持たせるように、何事も徹底して行うようになる。やりすぎ、執念深くなる。また、共同体として生活する中で、自分が疫病の発生源になることは共同体からの放逐を意味し、放逐されると生きていくのが難しくなるため、共同体への帰属意識が何より優先されるようになる。結果、秩序への厳格な帰属・帰順意識が強まり、同化意識も強まる。


同化意識が強まると、思考から個人としての主語=「私・自分」が希薄になっていって、所属集団としての主語=「我々・自分達」に収束されやすくなる。
結果、所属集団の一部に起きていることが、まだ自分に及んでいなくても、「我々(の一部)が大変で、それは自分にも起こる」と考えるようになる。
実話怪談は、「まだ自分には起きていないが、自分が属する集団の他の誰かに起きていること」を未然に想起させることで、自分以外の誰かが得た恐怖心を追体験・共有し、結果「自分に起きたわけでもないのに怖いと感じる」という心理から求められるものだと思う。自分事ではないのに同族集団の他の誰かが得た恐怖を求めるのは、同化意識+耐ショック訓練なのではあるまいか、とか思う。


ここまで枕w
エントリのタイトルとして書いた「日本人は優しくて親切」という本題に入ろう。
息子を亡くしたばかりのリンドバーグ卿だったか奇跡の人ヘレン・ケラーだったか忘れたけど、それが来日外国人であっても、誰かの不遇に対する日本人の同情心というのは誠に強いものらしい。
そういえば、困ってる外国人を見ると、無性に親切にしたくなってくる、という人も少なからずいる。なんというか、お節介をしたくなるというか。コレは単に「親切にしてる自分偉い」という自己満足も多分にあるのだろうが、「もし自分が同じ立場だったらどうしよう」という、自分に置き換えた場合の想像から、「相手も多分困っているのだろう」「自分はうまくできているのだから、せめて相手も自分なみに困らないようにしてあげよう」という連想から、そのような行動を取るらしい。


これは、日韓併合の前段階としての征韓論……が過激化する前段階でも、基本はそこにあったらしく、「日本は明治維新を自力で成し遂げ開化したが、李氏朝鮮は未だ蒙が啓かれず気の毒なので、人工的に維新を起こしてでも開化させてあげよう」というような、当時の人々の善意が根底にあった。が、それはそれでお節介な話なので「いらんわボケ、偉そうに言うな」と李氏朝鮮は反発。これが生意気だってんで、今度は征韓論が生まれ、「あいつら俺達の親切がわかってないから実力でいてこまそうぜ!」という叛乱士族に担がれて西郷どん田原坂に散った。
その後、紆余曲折して日韓併合が成るわけだが*3、それもまた「きっと喜んでくれているだろう」と、相手の価値基準が自分と同じところにあるはずだ、という前提に立った親切心から来たものらしい。


話はグッと現代、というか今目の前の問題に戻る。
鳩山代表の「友愛」というのは、「我々が親切にすれば相手も親切にしてくれるはず」「我々に悪意がなければ相手も悪意を持たないに違いない」という、性善説に立っている。これは恐らく日本国内では通用する理念・心理だろうとは思う。日本人は「されていやなことはしない、されて嬉しいことはするのが、共同体みんなの幸せ」と考える。
が、それは日本での話。特に現代日本での。
一歩日本の外に出ると、日本で言われている以上の貧富の差や、気を抜くと死んじゃう、逆に気を抜いても死なないのでコンプライアンスがユルユル……という、日本の常識や善意が通じない世界があるわけで、それらに対して「日本の理念はいいものだから輸出します、それに従えばみんな幸せ」というようなことをして喜ばれるのかといったら、そういうこともないような気がする。
国民気質は、風土で決まる。風土は輸出できないのであって、異なる風土を生きる人々には、異なる生存のための常識があり、それがその人々の性質を決める。
「我々のものはいいものだから、皆喜ぶはず。我々はいいことをしているのだから、感謝されこそすれ寝首を掻かれるようなことはあり得ない」というのが友愛wの根底にある、性善説+お人好しな感覚であるわけなのだが、それを強制されたり期待されたりするほうは、同様には受け取らない。アメリカからきたw民主主義やグローバリゼーションについて、「アメリカの押しつけだ」「お節介の輸出だ」と非難する反応は日本国内にもあるわけで、同じことを日本がやって日本だけは非難・拒絶されないと考えるのは傲慢だ。


さらにもひとつ卑近な話題。
「派遣の生活は厳しくなるばかり」「母子家庭の母子加算を廃止するのは可哀想」「生活保護の受給基準を下げ、給付額を上げるべき」「日本人にも賛成権があるのだから、在日外国人にもあげるべき」
民主党を後押ししているこれらのテーマには、可哀想な人は助けるべきという統一されたテーマがある。
実はこれ、「可哀想なのは誰か?」という部分が曖昧にされている。


例えば、魚屋さんにとって工場製造業従事の派遣労働者の不遇というのは、自分事ではない。
二親揃っている家庭では、母子加算廃止は自分事ではない。
働いて食べてる人にとって、生活保護給付額の低下は自分事ではない。
日本国籍を持たない*4外国人が参政権を得られないことは、日本人にとっては自分事ではない。


ところが、これらが報じられるとき、そこから主語が省かれることが多々ある。
「それらが得られなくて気の毒だ」
という書き方がされているなら、それは第三者が不利益者に対して同情している、という表現になるのだが、
「それらが得られなくて大変だ、存亡の危機だ」
という書き方をされていると、それを「誰が」言っているのかが曖昧になる。もちろん、書いているのは報じている記者であり、伝えている新聞・放送なのだが、書かれている「大変な人」自身の主観を代弁しているわけだから、気の毒で可哀想な当人が自分の不遇を訴えている、と受け取ることになる。
それだけならまだ他人事なのだが。
派遣切り、母子加算生活保護などの問題に至っては、「我々の生活が大変」「我々は生活保護が少ない」といった形で伝えられている。
その「我々」が、代弁者の背後にいる実際に大変な人達にとっての主語なのか、それを訴えかけられている読者・視聴者全般を含んだ、コミュニティ全体に対する「我々」なのか、実はそのどちらなのかによって意味はまったく異なるはずなのだけど、そこをはっきりさせず*5、「○○○さんが大変だ」とは言わないで「(読者を含めた)我々自身に火の粉が降りかかる」という言い方をする。
これによって、本来は他人事であるはずの人々も、それが自分事であるかのように思い始める。


母子家庭ではない家庭にとって、いくら加算が増えようと自分は得をしないのである。財源確保のため、むしろ無関係の人々は支出が増える。生活保護も同様で、派遣切り云々も同様。
が、「明日は我が身」という意識がそうさせるのか、自分が恩恵を受けないセーフティネットの構築について、過剰に熱心になる。熱心であるように振る舞わなければ、人非人という誹りを受ける可能性もある。
これはコミュニティからの放逐にも繋がりかねないから、「そうだそうだ、その通り、自分にはまだ類が及ばないけど気の毒だ」と言わなければならなくなる。


「自分以外の誰かに起きていることを、自分事に引き寄せて考える」という心理は、実話怪談を成り立たせる上で確かに重要な心の動きである。
この心理を、主語を曖昧にした上で後戻りしにくい親切心に付け入り、共感しないとハブるぞ、と言わんばかりのやり方が横行するというのは、いかがなもんかなあ、と思う。
思うけど、実際にそうされていて、「あいつは利己的」と思われたくはないから、そうした指摘に対して「そうだそうだ、可哀想だ、そうするべきだ」と賛同させられ、「おまえ、可哀想って言ったんだから、おまえが金出せよ」と言われて言葉に詰まるという展開が、今後増えていくのかもしれない。

*1:もしくはエエカゲンなw

*2:そもそも「財産」「貯蓄」という概念は、食糧がある程度まとまって手には入るけど通年獲得できるわけではない農耕によって生まれた。

*3:暗殺された朝鮮総督伊藤博文日韓併合に反対していたのだが、伊藤を暗殺したことで日韓併合の障害がなくなって話がどんどん進んでしまった。暗殺は邪魔な伊藤を排除して日韓併合を進める為ではないか、という説もあるのだが、その伊藤を暗殺した安重根を「英雄」として祭り上げるのは、おまえらちょっと待てwという気がせんでもない。

*4:ここには、治安維持・安全保障に対する最終責任を負わない、という言い方をしたほうがいいかもしれない。どこにも逃げ場がないからこそ政治に参加し、責任を負わねばならないのであって、税金を払っているから政治に参加する資格を得るのではない。日本国籍を持たない時点で、例え経済基盤があろうともそれはあくまで「一時居留者=旅行者」と同等であって、政治に参加する資格の裏付けにはならない。アメリカではグリーンカード(永住権)を持っていても大統領選に対する投票機会はない。

*5:三者的な線引きをせず