提案:第四の権力監視と報道総背番号制

交替する前から暗礁に乗り上げている新政権と、ベタ過ぎるアリバイ記事、そして選挙期間中の報道の在り方などについていろいろ思うところがあったので、本日はそのへんについて。
僕も一応モノカキの端くれなので自分もそこに含まれる、という前提で考えてみたい。


三権分立を振り返る

まず、日本は三権分立*1に沿った、法治国家である。
これを基本として一応紐解いてく。高校卒業後、大学進学した人でも政治経済を先行しなかった人は一般教養あたりで、そのへんに関する知識は止まってるだろうし。


三権分立は「行政」「立法」「司法」の三権力が分立し、それぞれを相互監視する、という仕組み。

  • 立法府(議会・国会)*2が承認・決定した法律を、
  • 行政府(政府・内閣)が実務組織である官僚(国家公務員*3 )に命じて遂行し、
  • 司法(裁判所・検察)が、行政府の行動及び立法府が作った法律が、法*4に照らし合わせて正しいかどうかを判断する。

で、これはそれぞれに関わる人間が、善意と正義に基づき、正しく判断することで正しく機能する。それであるが故に、

  • 行政府には「清廉潔白で汚穢のない誠実な人間*5」、
  • 立法府には「正気の人間*6」、
  • 司法には「法の知識と社会常識のある人間*7」、

がそれぞれ求められる。
そして、これらの三権は互いに監視し合っているから、正しく機能するはずだ……というのが三権分立であるわけなのだが、実際にはこれに加えて第四の権力報道(情報)が大きな影響力を持ってきている。
元々報道、情報操作の持つ能力は、民主主義政治が作られたごく初期には、言われているほど大きくはなかったのではないかと思う。
なぜなら、草創期の民主主義は有権者の人数が少なく、また同時多発的な情報伝達の可能なネット・テレビ・ラジオはなく、新聞の発行部数は決して多くなかったか、まだなかった。
当然、「噂を流す」「怪文書」といった形での情報操作はあっただろうけれども、報道の占めるウェイトは、既存の三権を揺るがすほど大きくはなかったもの、と考えている。


対して、現代では報道(放送・新聞)は全国的規模のものになり、またそれらのニュースをリレーして伝達するネットが大いに発達した。
これらの報道と二次伝達手段としてのネットの発達は、それぞれ別個に捉える必要がある。


報道は暴走している

報道は、本来、

  • あったることを過不足なく書く。
  • 主観や憶測を廃して書く。
  • 問題点や疑問点がある場合、メリットとデメリットの双方を同等に書く。

というルールがあった。

なかったことを書いたら嘘だし、あったることを意図的に黙っているのは不作為だ。
取材対象である当事者以外にはわからない内心の意図について、当事者ではない記者が自分の主観や想像に基づいて断定したり、誘導したりするのは報道ではなく洗脳だ。
あらゆる政策には、必ず「利点と不利点」「長所と短所」があるわけで、どちらか一方や一部分だけを抽出して殊更に持ち上げたり批判したりするのは片手落ちだ。問題点があるならメリットも合わせて紹介しなければおかしい。

が、こうした報道が民主主義に対する責務として負うべきルールが、昨今の報道ではまったく踏まえられていない。

  • 麻生総理は質問に答えた後、官邸に入った。
  • 麻生総理は皮肉たっぷりに質問に答えた後、そそくさと官邸に逃げ込んだ。この態度は各方面に波紋を呼びそうだ。


それぞれ同じような内容が報じられていても、記者の付けた修飾詞や描写、結びの感想文の有無で、それぞれの印象はまったく違ってくる。
しかし、情報そのものよりも「印象」「感情を刺激する情緒的要素」は情報を受け取る人間に影響を与える。上述の麻生総理は皮肉屋だけど小心者に見えるし、鳩山代表の抱える問題は全て片付いたかのような印象を受ける*8
こうした「印象」を植え付けているのは、報道ではなくむしろ「作為的な洗脳」とさえ言える。
「報道しない自由」で選択肢が他にある可能性を知らせず、「大げさで過大な表現」を用いることで、有権者の判断に影響を与えるという点で、報道は確かに「第四の権力」というのに等しい影響力を持っていると断言してよい。


報道は規制すべき?

では、この報道(マスコミ)という権力は、監視や賞罰の対象になっているかと問われると、なっていない。第一に、報道は「公権力ではない」という前提が日本にはあり、それらは民間企業であって行政上の公務員ではないため、国による規制が及ばない。
報道に携わる記者、プロデューサー、出演者は投票によって選出されたわけではないが、それらが伝える情報は「必ず正しい」ということが前提になってしまっている。


こうした事態に対して「マスコミを規制すべき」という意見をしばしば見かけるが、この意見にはあまり賛成できない。
最大の理由は、「報道の自由憲法で保障された権利」であるという点は覆らないため。憲法を改正して全ての報道関係者を公務員にでもしない限り、国が情報を管理する、検閲するということは正しい行為とは言えない。
また、全てが「官営報道のみ」になった場合、それらの情報が信頼できると言えるかと問われれば、逆に報道への信頼度は今以上に下がる。*9
報道の情報が無検証に信用できないことが問題で、それを無検証に信用してしまうことにも問題はあるけれども、だからといって報道の情報が一切信用できない、ということになってしまっては、民主主義下で有権者が「誰かを選ぶ」ということは一切できなくなってしまう。


また、報道を規制する方向に舵を切ろうとしたケースは、つい最近もあった。
安倍元総理が、NHK偏向報道問題、朝日新聞偏向報道などと対決姿勢を取ったことがあったが、結果的に報道によって追い詰められ、政権は崩壊した。閣僚が絆創膏を貼っただけで連日の報道批判を集めるなど狂気の沙汰だった。
ここで、「報道が本気になれば政権など簡単に潰せる」という前例ができてしまった。
報道の自由」のためなら政権を潰してもよい、という明確な意識があるのかどうかはともかくとして、「罰と規制」による報道の管理は、政治には無理だということが明確化したといって言い。


2008年の「毎日変態新聞事件」に纏わるネットの反応(新聞本体の不買運動+広告出稿者への働きかけ)や、リーマン・ショック以来の広告出校の低下は、実際の所、広告収入を主な柱としている報道各社、放送各社の屋台骨を揺るがす事態に繋がった。*10
報道各社が「自社生き残りのために、事実と異なる報道を乱発しはじめる」というような事態が起こりかねない。
報道各社はあくまで民間企業であって、公金で運営されている公共組織ではない。社会の公器を自認することと、実際にそうであることは別だ。
社会の公器、社会の木鐸を自認できるほど大きな影響力を持っているというなら、それだけの責任を負うべきだ。


報道がこうした肥大した権力になっている以上、やはりなんらかの「監視」の機会を受け入れる、または何らかの自主的な「監視」を受け入れなければならないとは思う。


報道従事者総背番号制

企業としての報道各社を、法によって規制することは難しいしすべきではない、ということは既に述べた。
また、彼等を公務員にしてしまうということも避けるべきだ。これも述べた。

ではどうするか。
報道は信頼を取り戻さないとならないわけで、そのためにしなければならないのは、

  1. 記事(番組)のアーカイブ化/第三者による自由なアクセス・検索の保障
  2. 記事の記名化/記者(ディレクターなど報道従事者)のトレーサビリティの向上
  3. 相互監視による信賞必罰

であろうかと思う。



記事(番組)のアーカイブ化/第三者による自由なアクセス・検索の保障
まず、一度公開された記事は全てアーカイブ化されるべきだ。「なかったこと」にさせないため、及び「その記事には何が書かれていたか」を完全に記録、集積すべきだ。
これまでにもニュースソースは議論の根拠として利用されてきているし、多くの報道は一般有権者の判断だけでなく、政治家の判断の源にもなっている。政治家といえど、その一人一人が専用の諜報機関を持っているわけでなし、情報の収拾方法は有権者とそう多くは変わらない。*11


報道はその他の誰かの判断に影響を与える情報を扱うのだから、その根拠として広く遍く、「誰にでも」アクセスできることが保障されているべきだ。
昨今、国会議事録や閣僚会見などは全て一次情報としてアーカイブされており、パソコンがあれば全国のどこからでもそれらの内容を知ることができるようになっている。国会中継も同様だ。*12


同様のことを報道各社が民間では不可能だというのなら、その部分に関しては「有権者が判断を下す、民主主義の基幹を維持する事業」として政府が必要な予算を計上するのもよいと思う。メディア芸術センターのケースのような反対は出にくいだろう。たぶん、「著作権」「肖像権」を楯にした反対は起こるだろうけど。



記事の記名化/記者(ディレクターなど報道従事者)のトレーサビリティの向上
これについては、毎日新聞産経新聞や一部週刊誌などでは記名原稿が採用されているケースも見られるが、これをさらに押し進めるべきだ。
記名化を行うことの他に、記者(報道従事者)を全て登録制とし、掲載記事に記者番号を掲示することを義務づける。
これと前述のアーカイブの併用によって、「誰がその記事を書いたのか?」と「その記事を書いた記者は、他にどういった記事を書いてきたか?」を検索することが可能になる。
これは、例えば転職やフリーになっても同じ記者番号が継続されることで、所属する企業=報道企業に拘わらず、「会社を変わる前と後との記事傾向」を比較できる。
信頼のおける記事を書いている記者か、そうではないか。
自分の性向と合致する記事を書いている記者か、そうではないか。
過去に誤報や捏造、偏向報道などに関わった記事がある記者か、そうではないか。
それらについて、記者当人を規制する、報道各社を規制するのではなく、有権者自身が誰でも追跡・追検証*13ができるようになれば、結果的に「正直ではない/嘘の含まれた記事を作る記者(報道従事者)」「特定の勢力に荷担する記事ばかり作る記者」などが浮き彫りになり、そうした記事が信頼できるかどうかの判断を有権者自身が行える。


BSE問題が叫ばれた折り、IFタグ技術が進化し、牛肉の安全管理のためのトレーサビリティが注目を集めたが、同じことを報道の信頼性・安全性に対しても当てはめたらいいのではないか――というものだ。



相互監視による信賞必罰
官僚を動かすには信賞必罰が重要だ。失敗は罰し、成功には必ず報いるのがよい。それが官僚を奮起させる最良の方法である。というのは、外務相時代の麻生総理の弁で、実際外務省の官吏は、田中眞紀子時代と比べて大幅に奮起したという。

これは規制ではないのだが、罰ばかりでは反抗心が生まれるばかりなので、報道各社も同様に「信賞」の部分に触れつつ、各社が相互監視をしたらよいのではないか。


例えば、リーグ制というアイデア
「各社による相互監視の結果、捏造や瑕疵報道の最も多かった一社から、電波使用権を剥奪する。或いは、新聞の出版を差し止める」
例えば、報奨金制というアイデア
「各社による相互監視の結果、捏造や瑕疵報道が最も少なかった一社に、公益補助金として数十億円単位の補助金を支給する」


いずれも簡単には実現できそうにないが、民間各社が相互監視をすることによって、
「自社が正直であるほど得をする」
「他社の悪行を暴くほど得をする」*14
という制度を施行するのはどうか。


正直競争の導入

結局、有権者にとって最も利益が大きいのは、各社が嘘競争を繰り広げることではなくて、「正直競争」を重ねることにある。
報道内容が信頼できるのであれば、正しい公式に正しい代入値を入れることができ、正しい結果を得ることに繋がる。
正直で正しい――というのを、従来の「購読者を増やす為の手前味噌の印象広告」から、有権者/購読者が第三者的な評価を下すことに振り向けることで、誰もが得をする。


実際、顔を歪めて誰かの悪口を書き連ねるというのは、本人が正義感に酔っているなら気持ちいいのだろうけど、読まされて怒る片棒を担がされるほうはたまったもんじゃない。
人間は誰だって、そして辛いときほど【自ら進んで不愉快な気分になりたがる】という人間は多くない。*15
他人の悪口を自分が言うのは楽しいかもしれないけど、それを聞かされるのは楽しいものではないし嫌な気分にしかならない。
小学校の道徳の授業でやった「人の悪口を言わない」ということを、娯楽のために大人が簡単に否定するようなことをやってたら、そりゃ誰もテレビを見なくなるし、新聞だって読まなくなるよ。楽しくないもの。





そんなわけで、記事アーカイブ制、記者総背番号制、相互監視の信賞必罰制、もし実現されたらそのときは民主党を支持してもいいw
そして、実話怪談書きもその一端に名を連ねるべきだというなら、書き手としても編集者としても喜んで登録したい。

*1:三権分離、ではなくて「分立」

*2:地方自治体では、県議会、市議会、町議会、区議会がこれに当たる。

*3:地方自治体ではこれのミニマムなものとして、地方公務員がいる。行政のトップは、知事・市長・町長・村長などの自治体首長がこれに当たる。

*4:究極的には憲法

*5:日本では「公僕」の権限に対して、行政能力よりも正直であることのほうに重きが置かれがち。「無能な働き者」が最も手に負えないとされるが、「有能な怠け者」より「無能な働き者」、「悪徳で有能な統治者」よりも「美徳で無能な統治者」を支持してしまうのは、日本の風土からくる国民気質がそうさせるのかもしれない。

*6:残念ながら、一定の支持と推挙があれば、それが正気ではない人間でも議員にはなれる。正気かどうかについては、診断書が発行されない限り相で気ではないという評価を下せないので、病院に行かなければどんな人間でも「正気の人間」として立候補はできる。その候補者に支持を与える有権者が正気ではなかったとしても、それも未然に防ぐことはできない。

*7:司法に対する不信として、司法の「社会常識」が問われた結果、裁判員制度が成立し、「文句を言った有権者当人が、その責任の一端を負う」ことになった。

*8:実際には、会計責任者は「解雇」されたが行方知れず、会計監査役は選挙前に「病死」。関わった人間は次々に友愛されているが、問題はひとつも解決されてはいないような。

*9:大本営発表は果たしてどこまで信用できたか?

*10:毎日新聞のように、「これだけ味方をしてやったんだから、年500億円の公的補助を新聞社に投入すべきだ」というような記事を掲載するところもあるくらい。

*11:敢えて違いを言うなら、官僚組織の持つ専門性の高い情報を持つかどうか、といった違いでしかないが、それらも国会質問とその回答という形でアーカイブされており、一般人は誰でもそれを知ることが可能だ。ネットからも検索できます。

*12:ただ、検索性には若干の問題が残っているとは思う。使いにくいし。

*13:トレーサビリティの確保

*14:業界内で相互協力をさせない

*15:実話怪談は別腹w そのへんのロジックは前にも書いたので割愛。