齋藤八重と徳川慶喜

そういえば、「徳川慶喜家扶日記」(徳川慶喜の家扶*1である新村猛雄他が残した日記)の現代語訳版「慶喜邸を訪れた人々」を入手。
明治17年4月頃の項に、「八重」の名前を発見。用人(使用人?側用人?)の扱いになっている。
時期的に、この頃には既に新村猛雄の養女になっていたはずで、同年明治17年6月21日には昭武は松戸戸上邸に引っ越している。
戸上邸への引っ越し時点で八重は既に昭武の元にいたはずなので、新村猛雄の養女となったのは名目上だけではなく、八重は一時期、慶喜邸にいたのは確かなようだ。


齋藤為儀貫之の娘→新村猛雄の養女(慶喜邸用人)→徳川昭武公の室


という順。
八重はこの頃に蓮永寺に墓所を建立している。
また、この頃、齋藤家は静岡市葵区(当時は伝馬町?紺屋町)あたりに居住していたようなので、八重は「通いの用人」として勤めた後に新村の養女となったか、用人として慶喜邸に出入りする名目に証しを立てるために新村の養女という形を採ったか。


昭武の来静はさらに遡って、
明治15年2月、静岡で隠棲中の慶喜の元に昭武が訪れているが、この時点では昭武の前妻である瑛子が存命。
明治16年2月に瑛子が乳熱(産後の肥立ちが悪い)によって急逝。
明治16年11月に天璋院篤姫)急逝。
明治16年12月に天璋院の葬儀。恐らく慶喜・昭武はここで会えているだろうと思われる。瑛子の死後で二人が直接会っていそうな機会はここだけ。
明治17年4月28日、天璋院の遺物が慶喜用人に贈られた(形見分け)。この中に八重の名があり、2円を賜っている。
明治17年6月22日、昭武が松戸の戸上邸に引っ越し。
明治18年2月、昭武来静。


八重の名前は17年に「女中の一人」として出てくる以外出てこないので、     もう少し別の角度から当たってみる必要はありそう。
ただ、八重が「新たに墓を建立する資金をどこから得たか」を考えると、天璋院の形見分けの2円が原資になったのでは、と推測できる。
蓮永寺の墓の建立年は現地まで行かないと分からないorz

*1:執事