原稿さくさくさくらさく

いや、桜にはまだ早いなあ。
と。


今書いている原稿というのは、例によってまだ子細は明かせないのだけれど、僕にとってなかなか興味深い仕事であったりする。
例によって恐い記事を書いているわけだが(^^;)
で、その仕事をしつつ思ったこと。
普段、「超」怖い話「弩」怖い話などではとりたてて「どのように恐くするか」というのを考えて書いたことはなかったと思う。考えるまでもなく、取材した話、お預かりした話を読み砕くだに僕がめちゃくちゃ恐いんで、「うわー、コワー」という感想をそのまま再現するだけで事足りていた気がする。
つまり、怪談を怪談たらしめているのは、書いてる当人が恐いと思っているか否か。まずそこが全ての第一歩なのではないだろうか。
逆に言えば、書いてる当人が自分で恐いと思ってないものは、どう逆立ちしたって恐い話にはなり得ない。よく、「編集者は世界で最初の読者」みたいなたとえがあるが、それ以上に自分の書いた文章を世界でいちばん最初に読むのは他ならぬ自分自身であるわけで、自分が自分を怖がらせる、んじゃなくて自分が自分の文章を恐いと思えるようでなければ、たぶんそれは他の誰かが読んでも恐くないんじゃないだろうか。
つまり、えーと、「どうだ恐いだろう!」「さあ怖がれ!」という、命令形の恐怖(笑)というのは、多分なんか違うのだと思う。
また、「ほーら、恐いですよ、恐いですよ、これから恐くなりますよ、さあ、ここで怖がってください、はい、恐かったですねー」という懇切丁寧な恐怖というのも、やっぱりなんか違うようだ。
恐怖のツボというのは人によって様々で、怪談屋は皆そのツボをどこに持ってくるかで悩んでいるものだと思う。万人が「コワッ」と思う究極のツボがあればそれに越したことはないのだが、そんな都合のいいものはない。
だから、作者自身が「ここがコワッ」という自分の恐い基準を示し、それに近い感覚を持った読者が恐怖を共有していくことになる。
一方で、ツボが異なる不特定多数の読者に、一本の怪談で同時に怖がって頂くという方法もないではない。
それは、怪談を不親切に作ることである。
ときどき怪談論議になるときに引き合いに出す例えだが、

  • そのとき、血塗れの白い着物を着た髪の長い青白い顔をした頬のこけた女の幽霊が、

と、ここまで書くのが凄く親切な怪談だとする。
怪談初心者にはそれでもいいのだが、怪談ジャンキーにはこれは食い足りない。というか、うざい(笑)
では不親切にするというのはどういうことかというと、ここから描写をどんどん削っていく。

  • 血塗れの女
  • 白い着物
  • 髪の長い女

てな具合で、どこを削るか、どこを残すかというのはこれはもう結局は作者の「恐い基準」に照らし合わされることになるわけなんだけど、それでもうまいこと削っていくと読者はそれぞれの怪談深度(造語)または怪談把握力(造語)に合わせて、自分にとって何が恐いか、どうなっていたら恐いか、というのを想像して欠けている部分を補いつつ読んでいくことになる。
だから、極論したら著者は

  • 女が……

とだけ書いておけば、怪談を読む気満々の読者がそれをそれぞれの怪談知覚力(造語)に合わせて、怪談に組み上げていく。

と、こんなことを書くと「それは作者の怠慢でないかい」とか「作者として著述描写することから逃げてないかい」とお叱りをいただきそうな気もするが、怪談というものは(もしかしたら怪談以外もそうかもしれないけど)一種のパズルなのではないかと思うのだ。
正答を持っている体験者が最初に解を示す。
作者はこの解に基づいて再度「パズル」を組み立てる。このとき、何から何まで親切に書いてしまうと、再度組み立てられたパズルを解く楽しみがなくなってしまう。
読者は今度は作者が示したパズルの欠けている部分を補いながら、当初の正答に近付いていく。
すべてを予め作者が用意し、作者の意図通りに手を引かれ、作者の思惑通りのところに連れていかれる、パックツアーのような親切さはそこにはない。
スタート地点で地図と磁石を渡され、いきなり樹海に放置されるようなタイトロープなオリエンテーリングがそこにある。

事ほど斯様に怪談というのは不親切でそしてわざと未完成のまま放り出されることで、真価を発揮するものなのではないか、と思う。
もちろん、この手法、思考法というのは15年の怪談生活(^^;)の中で培われてきた自分なりの理解であって、他の怪談作家の方々の方法論すべてに当てはめられる普遍性があるものではない、ということは重々承知している。
怪談の方法論が夥しく存在するように、「怪談を書く理由」「怪談でなければならない事情」というものもその作者によって異なる。その事情の数だけ、方法論も違って当然なのだ。
それでも、冒頭で触れた現在制作途中の記事を通じて、改めて自分がこれまでやってきた「怪談」というものが、どういう構造を持つものであったのかを再確認できた気がする。


いやはや、畑違いの仕事というのはやってみるものだ。
慣れ親しんだことについて、これほど新鮮な視点が得られたというのは大きな収穫だと思う。