目的と必然

ネットが広まる以前から日本人は「モノ書くこと」に対して親しんできたと言える。
日記文学というジャンルが太古からあったし、江戸時代には庶民の識字率の高さ*1もあり、さらには「道中記」のような日記/紀行文、子孫にあれこれと書き残すことを是とする「日記が趣味」の人もかなりいた模様。僕もしばしばお世話になる守貞漫稿のようなものは、とりたてて珍しくないというほど多く存在していたようだ。


清少納言の時代から妙な折り方のメモが教室を飛び交った十数年前、そして今はケータイとblogの時代になっているわけなのだが、これらは全て「書き残すのが好き」「モノ書くことに対する抵抗が少ない」という歴史の蓄積の上にあるのかも、と思ってみたりもする。


その意味で、モノ書くことというのはそれほど特殊特別なことではないのだと思う。
書くということは量をこなせばそれなりに読めるものにはなってくる。明冶大正の時代にそれまでの文語体の文章から口語体の文章が認められる変革期があったが、その潮流の最先端にいる現代では、「相手に自分の意志を伝えるに足りる日本語をしゃべれる人」であれば、誰でも文章は書けるということになる。
そうなると、問題は「如何に書くか」ではなく「何を書くか」と「何故書くか」に絞られていく気がする。


書き方教室ではないんだけど、「如何に書くか」は教えることができる技術だ。小説の書き方のような教本には素晴らしい出来のものが数多くあり、これまでも、また、今後もそうした有益な本は出てくると思う。
一方で「何を書くか」と「何故書くか」は教えることができない。


「何を書くか」は書く目的である。仕事や要件が決まっているなら「○○○に年賀状を出せ」「○○○までに請求書を書け」などのように、書く目的は明確だ。
が、そうではないことを書くとき、しかも何を書いてもいい、という真っ白いノートを差し出されたときに、「何を書くか?」という問いに悩まされることがあるかもしれない。人から言われて何かをやるということは案外楽なのである。何をするか、何を書くかを自分で決めるというのは案外戸惑う。
仕事として「○○○を書いてくれ」と頼まれた場合は気にしないで済むが、自分の意志で何かを書こうという人は「何を書くか」というのは大いに気にしなければならないと思う。


「何故書くか」は書く必然である。目的と重なる場合もあるし、そうでない場合もある。
書かないといけない理由は、それこそ人によって大いに違うのではないかとも思う。これも誰かが教えてやれるものではない。


で、「何を書くか=書く目的」と「何故書くか=書かなければならない必然」が揃って、始めて、あとは「如何に書くか=書く技術」というものが必要な段階になる。
書く技術は教えられるし鍛えられるし育てられる。
これらを教える教本は、「何を書くか」「何故書くか」の前提をクリアした人には大いに役立つはずだし、買って損はない。むしろ買うべきかもしれない。
逆を言えば、「何を書くか」「何故書くか」で迷っている、答えが出ていない段階の人にはまだ早いかもしれない。
「教えられない前提」については、これは各人が自問自答して考えなければならない。一朝一夕に答えが出る類の質問ではないので、何度も答えを修正したり、翻意したりすることもあるだろう。過去の自分の意見との一貫性に呵まされて、新しく手に入れた考えをなかなか認められない人もあるかもしれない。そうした「いったりきたりする信条」というのは、お金を頂いて文章を書く身の上になってもなお続く。もしかしたら一生続くのかもしれない。たいへん難儀である。


一方で、最終回答ではないにせよ「今、自分は何を書きたいか。何故それを書きたいか」という質問に対して、その場その場で何らかの答えを見つけられれば、後は周りが止めたっていくらでも書ける。それこそ、1週間で文庫一冊だって書けるのである(笑)(本当)


このことは、超-1を意識している方には頭の隅っこでちょっとばかり考えておいていただきたい宿題である、と受け取って頂きたい。

*1:あの時代、奉公先の仕事や家業の継承に必要だという理由もあって、手習い/寺子屋が発達。被支配階級の識字率が8〜9割近くあったという資料もあるそうな。文字/書籍が教会や支配者のものであった他国と比べた場合に、娯楽としての黄表紙、錦絵、貸本業なんかは読み書きができないと成り立たないわけで、そうしたものが消費される娯楽として庶民階級の間にあったというのは世界史的に見ても案外凄いことらしい。