作家になりたい人

「作家になりたい」のと、「作品を書きたい」のと、「書きたいことがあって誰かに読んでもらいたい」というこの三者は、似ているようで実はまったく違うというか、広くて深い溝がある。
「作家になりたい」のは立場・肩書きへの憧れとしてはいい。が、作品を書き続けなければ作家という「状態」を維持するのは難しい。
「作品を書きたい」という熱意を持つのはいいことだ。が、書きたいテーマもないのに実績だけを希求するのは本末転倒だ。
「書きたいことがあって、誰かにそれを読んでもらいたい」というのは、ものを書く上でもっとも大切な原動力であり、まさに「書く必然」だ。それ+αは人によって違ってくるんだろうけど、これは何より重要だ。

で、「誰かに読んでもらうためにはどうしたらいいか」についてどう捉えるか? が、書き屋が「売り上げに一喜一憂せずにいいものを求める芸術家」になるか、はたまた僕のような「テーマを出されれば、日々の暮らしのためなら何でも書く文章製造業者」になるかの分かれ目なのではないかなと思う。
「書きたいことだけを書く」ことで食べて行けたら幸せだけど、「書きたいわけではないことも書く」のが仕事。その上で「書きたいことも書かせて貰える」ようになれれば言う事なし。文章製造業者の望みは非常にささやかなのである。
また、編集者出身の大作家の多くはそうした「ささやかな望み」と「書きたいことに押しつぶされそうな自分」との切磋琢磨の末に、「書かざるば死ぬ」という境地に至ったのだろうなあ、とかなんとか。


……と、本日、ちょっとそういう志望の方とお話などしていて、口角とばして説諭したことを覚え書き。


単に発表したいだけなら今はblogもある。ネットもある。電子書籍もある。同人誌もある。
個がマスに向かって発信する機会は、かつてはかなり制限されていたし、狭き門だった。
が、現代では「より多くの人に読んでもらいたい」というだけならむしろ機会・手段は飛躍的に増えている。そういう気持ちを満たしたい人に、今ほど幸せな時代はないと思う。
紙の本を作るのは、何の制限も束縛も受けずにblogに発表することに比べれば、遙かに制限が多い。差別的表現や禁止用語を配慮し、広告主に遠慮し、社会的悪影響を苦慮する努力もblogならさほどしなくてすむ。それほど、紙の本の世界は窮屈なのである。
部数にしたところで、爆発的ミリオンセラーはともかくそうではない大部分の本の部数は、下手すると中堅所の人気blogより遙かに少なかったりもする。ブロードキャストのための手段としても本のキャパというのは大きくない。


それでも本を書きたい、書いたものをより広めたいという向上心と、窮屈さに耐える耐久力と、書きたいことのために書きたくないことも書く、書きたいことのために書けないことをガマンするという柔軟性、妥協する心も求められる。
そこまでしないと、「紙の本」を書き続けるのは難しい。
作品の質は高いのが当然だが、プロとして、仕事として文章を書くのなら、作品の質以外の戦略眼、戦術眼も必要になってくる。
blogで発表するのではなく、「本を売ろう」と思うなら「売れなくてもいい」なんてことは微塵にも考えちゃいけないのである。それが、自分の原稿に金を出して印刷・販売を手がけてくれる出版社に対する義務と責任である。
そういう思考ができない人は、職業的な書き屋には不向きなのでは、と心配になる。


よいものを書くというのは、求めていくべき道であると思う。
が、それを支援してくれる出版社、印刷所など本作りに関わる多くの人の生活を支える収益を生むものを作り続けるという大きな責任をも負うのが、職業的書き屋というものではなかろうか。
「作家という肩書きを欲している人」や「書きたいネタはないけど、作品は残したい」という漠然とした段階の人は、まず何より「たくさん書く」こと、ネタが尽きたらすぐに補充する取材力や着眼力を鍛えること、いろいろなこと、もの、人に興味を持つこと、このへんを徹底してやって、蓄積を作ってから先のことを考えるべきではなかろうか。


というようなことを、切々と語ってきた。
こういう質問や相談はたまに受けるのだが、その都度、「業界の話」や「それで食ってくということ」について説明なんかする。結局それは、自分のあり方を省みることにもなり、また「えらそうに言ってるけど、自分は5年後10年後もこれで食っていけるのかな」と、その都度不安になり、だいたいその日の晩は落ち込んで悪夢に魘される(^^;)

そんなことを繰り返して今年で21年目に突入。
困った。


もうこの仕事以外できない。
これで食う以外の生き方が全然思いつかない。
僕にとって書くことというのは、「息をするようなもの」で、書くのやめたら死ぬ、ということ。


皆さんはどうなんでしょうねー。