怖いということ
折り返して後半戦に突入した超-1。
講評者(おそらくは応募者もいるだろう)の、初期エントリー作への講評が活発に行われている模様。
僕は物欲系の仕事をするとき&漫然と欲しいジャンルから自分好みのものを選り抜くときは、オークション系のサイトから専門家のサイト、モノによっては専門店の店先に至るまで見て歩く。
そうして、「デザイン違い」「色違い」「値段違い」「素材違い」「機能の省略度合い」「重さ、質感」なんてものを大量に比較して回る。
どんなものでもそうで、例えば「ゴーグルが欲しいな」なんて曖昧な目標があった場合、楽天あたりで検索して目に付いたものをすぐ買ってしまうと、たいがい失敗する。
楽天で見かけたら、ヤフオクでもチェック。安いからといってすぐに買わず、今度は類似品をチェック。類似品・バッタものをたくさん見ていくと、今度は「メーカー純正品との違い、純正品の秀でたところ」が見えてくる。一方で「同じ機能なら安くてもかまわない」ものも見分けが付くようになってくる。
服や装備品の場合、「それを身につけている自分に似合うかどうか、それを身につけて街を歩けるかどうか」「それの使用頻度はどの程度になりそうか」なんてことに至るまで、いろいろな類似品を見ていくとだんだんわかるようになっていく。
これはいいものを選ぶ目が肥える、というだけではなくて、同時に「人気があって売れているのはAだけど、自分好みはB」などのように、自分が何を好み量産品の何が物足りないのか、自分が物足りないと思っている量産品はなぜ人気があるのか、などがわかるようにもなってくる。また、一見して似たような機能のものに、どうして機能を追加したり省略したバージョンが存在し、またそうした機能違いのものも売れているのか、という理屈もわかるようになってくる。自転車でも折りたたみカートでもホームベーカリーでも石臼でもなんでも同じ。
あれこれ調べ物を続けていくと、市場やそれが求められる背景、自分の好みとは別に訴求される理由などもわかるようになってくるわけで、物欲関連の仕事のおもしろいところはそのあたりにある。一仕事終えた頃にはそのジャンルのオーソリティになっている上に、「今まで自分が知らなかった新しい楽しみ」がひとつ身に付いている。これを繰り返すと多趣味になっていくわけだが、それはさておき。
長い枕はいつものことだが、これは怪談においても同じ。
いろいろな怪談を見ていくと、怖い、長い、おもしろい、好き嫌いなどがいろいろ見えてくる。自分の好みと、ウケるものは違うし、ウケるものといいものはまた違う。高品質を目指せば「いいもの」はできるだろうけど、似たような話ばかり連発する著者は「いい著者」じゃない。超-1は「いい怪談」じゃなくて「いい怪談著者」を探すことが目的であり、いい怪談著者の条件は「たった一個の名作」を書ける人ではなくて、「怪談を書き続けられる人」であると信じている。そうでなければ、「超」怖い話を今後も延命させ続けていくことなど出来ないからだ。
自分の趣味、好み、というか「自分にとって怖いこと」を求めて、それを満たしてくれる怪談を探していくわけだが、この方向を突き詰めると「究極の怖いもの」が見つかってしまうとそれを乗り越えるのが非常に難しくなる。何を見ても「でも○○○にはかなわない」という比較になってしまうためだ。
オンリーワン≠トップワンを探し、それを世の中の基準にしようという試みならそれもいい。
が、実話怪談はそうは問屋が卸さない。
「こんなこともある。あんなこともある。こんなバリエーションもある。聞いたことのない話を次々に聞きたい」ということが読者の根底に常にある。
だから、究極の怪談を一個提示すれば役目が終わるのかというとそうでもなくて、「他には? 他には?」と次を求められ続ける。
このときに、「ある一方向を極める」という方向で次を模索し続けると、わりとすぐに書けなくなる。書く方は「これこそが究極」というものを書いているわけだが、「それを同じ方向でもっと凄く!」とやり続けると、すぐに麻痺してしまうのである。だから、同じ方向を模索し続ける限り、すぐに書けなくなる。
講評する側も、やはり自分好みや自分の中の「究極の方向性」に、近ければ近いほどよいものと判断しがちだし、そういう判断の仕方もひとつのありようとしてはいいのかもしれない。が、その講評の仕方でいく限り、書き手はすぐに先細る。つまりは、「超」怖い話には向いてない。
「超」怖い話というシリーズは、実話怪談というジャンルで15年もやってきた。
それぞれの時代の編著者・共著者は、そのときどきにそれぞれ別の仕事もやっている。ゲームブックだったり、冒険小説だったり、パソコン雑誌だったり、映画評だったりとそれは様々だが、それ専業ではないことによって取材人脈を広げたり、または「違う方向性」を取り入れたりすることに役立っていたのだとも思う。
この中に、「同じような話は避ける」という不文律もあった。
似てはいるけど、違う展開、違うノリの話をできるだけ選ぶ。
そのため、当初は掲載エピソード数の5〜6倍はあった候補が、中期以降は激減していくことになる。「これ、聞いたことあるよねえ」というものを容赦なく跳ねていたからだと思う。*1
実話怪談の読者と、創作怪談の読者の違いを考えてみる。
もちろん、「ホラー好き」「恐怖好き」ということで両刀使いな人(笑)のほうが多いかもしれないのだが、創作怪談好き、創作的文章好きの人は「完成度」や「自分の好みに近いもの」ほど高く評価する。その意味で「高品質」を求めるのはこの傾向の人。
実話怪談好きの人というのは、「予想を裏切られること」に重きを置く。予想の範囲内にオチる話だと勘弁してもらえなかったりする。その意味で、「バリエーション豊富」を良しとするのはこの傾向の人。
「超」怖い話が過去にいただいた賛辞を、いつも新作に取りかかるときに思い返して自戒としているのだが、嬉しいのはやはり「よそで読んだことのない話がある」ということ。
以前、二代目編著者の樋口さんも後書きだったか前書きだったかに書かれていたが、酒場の隅で誰かが噂しているのを背中で聞きつつ「その話はね、俺がいちばん最初に聞いたんだぜ」というのが、実話怪談屋としてはいちばん嬉しかったりする。おそらく、「超」怖い話の読者においてもそれは同じで、「超」怖い話で初めて知ったエピソードを、友人に話したりするときに相手が「へぇ〜」という顔をするのが嬉しかったりするらしい。前述の「よそで読んだことがない話がある」というのは、そういう意味でも、大きな褒め言葉だし、それを裏切らないようにしなくちゃね、と思ったりするところでもある。
「超」怖い話においては、この「初めて聞いた」というのは特に大事だと思っている。
文章の完成度は後でどうにかなる。
が、初めて聞いたと思わせる、または読者の予想をひっくり返すということができる、
・予想外のネタを探してこられる人
・予想通りのネタを、予想通りに展開させない工夫ができる人
・そうした変化球をたくさん保っている人
というのが好ましいし望ましい。
「超」怖い話の共著者になったら、そんなことを年2回毎年ずーっと、「もうダメです」と弱音を吐くまで続けていかなければならないからだ。「傑作を一個書けたから僕はもういいです」という人では困るのである。
そういう事情もあって「超」怖い話になかなか人が居着かないので、チーム参入者がなかったんだよなあ、ということを今思い出した。
僕としては、びっくり箱のようにいろいろなことができるというのは、いいことだと思う。
「コレしかできない」という人よりは、「いろいろできるけど、得意なものはコレ」という人のほうがチャンスが多い。「自分の好みはコレだけど、読者に受けるのはそれじゃなくってコッチ」みたいな具合に、自分は期待していないものが評価を受けたりすることもあるからだ。*2
)
自分が好きなことと、自分を好きな人が褒めてくれる所が同じならそれに超したことはない。が、そうとは限らないから、いろいろできたほうがいい。
そして、どれが評価されるかわからないから、「自分好みのものだけを出す」のではなく、「自分でもやったことがないようなものをどんどんやる」ほうがいい。
もちろん、それらの多くは「高品質なオンリーワン」を求め続ける人にはウケが悪いかもしれないけれども、それについてはあまり気にしなくていい。
「目先の違うものを、どんどん持ってこられる」「読者の予想を足下からひっくり返し続ける」「毎回違うことができる」というのは、今だからこそできることでもあり、同時に「超」怖い話に来たらずっと続けなければならないことでもある。
たくさん書くことで、そういう実験や遊びや「あまりやったことがないこと」にも挑戦するゆとりができてくる。また、筆も速くなる(笑)*3。
超-1は実戦さながらでお願いしているが、応募者の方々には講評をあまり気にしすぎることなく「いろいろ」試して頂きたい。
予想通りの展開とオチになるような話では、「超」怖い話の読者は満足させられない。
PS.
日テレ月曜0時からの、みのもんたのトーク番組「さしのみ」を見る。ゲストは雅楽演奏家の東儀秀樹。
ぼんやり流し見ていたが、帰国子女で18歳から雅楽を始めたという東儀氏の話がなかなかおもしろい。
「国際人と言っても、英語を話せるだけで伝えることがなければ意味がない。世界の人に【日本てなんだ?】と聞かれたときにそれに答えることができる、【伝えるべき日本について】を知っているというのが(海外で日本を代弁できるのが)国際人。言葉は、それこそ通訳立てれば済むこと。伝えるべき内容は誰かを代わりに立てるわけには行かない」
これは含蓄のある言葉だと思う。
技巧があっても伝えるべき怪異がなければ実話怪談は成立しない。もちろん、通訳を立てるわけにも行かないので、我々は【伝える技巧】を高めることもしなければならないのだが。
また、「日本語は曖昧だが、曖昧なところがいい。察する、行間を読む、言葉の裏を思いやる、ということが発達する」という。和を持って尊しとするのが日本人の気質というが、気質だけではなく言葉も当然その必然に基づいて発達する。
そのものずばりを活写する表現方法もまた「表現」であると思う。
と同時に、「そのものの輪郭だけをなぞり、実態については直言しない」ことで、活写すべき対象を浮かび上がらせるという表現もある。つまりそれは「行間を読む」ということ。
読む側にもそれが求められるというのはあるんだけれども、コミュニケーションというのは一人では成り立たない。必ず発信者と受信者、対話の相手が必要だ。
様々なものを示唆する奥深いコミュニケーションは、その行間の裏を双方が互いに読みあうことで成立するのだと思う。
いろいろな形のコミュニケーションを楽しむことこそ、至上の喜びと思う。