公開完了から一夜明けて

なんかもう、ここしばらく話題は超-1かそうでなかったら怪我のことばっかりだった気がする。それだけ日常生活を食いつぶされてたってことか。
さて、超-1。
6/3までの間がファン感謝デー……じゃなくて講評期間。
超-1、まだ読んでないよっていう人には、#3を最初から読んで、#2を読んで、最後に#1を読むという変則的な読み進め方もおすすめ。何度も応募してきている人は、回数を重ねることによってだんだん手慣れてくる様子。その結果、#3にはかなりこなれた怪談が入ってきているので。そして、
#2あたりには回数は出せなかったけどいいものを書いている人の作品が散見。読みでがある。
#1はまだまだ手探り感が強いんだけど、今読み返してみると「あっ。そういうことだったのか!」と気づかされて評価の変わる話や、「文章はこなれていないけど、この話はスゲー怖かったんじゃないのか」と改めてガクブルする話も多数。

たくさん読むと麻痺するという意見もある。確かにその通りなのだが、同時にたくさん読むと一気にセンサーが高まるとも言える。些細な恐怖の「それがなぜ怖いか」が味わえるようになってくる。
人によっては、「麻痺して何を読んでも怖くない」となる人と、「センサーの性能が高まりすぎちゃって、何を見ても怖くなる(怖いツボを発見しやすくなる)」という人に二分化されるのではなかろうか。
「自分がいかに恐怖に対して耐性が高いか」を誇りたい人は前者になりがちで、「地雷があれば踏んでみたくなり、怪我が嫌いなくせに痛みを感じたがる人(=恐怖を渇望している恐がり)」は後者になりがちかもしれない。


そして、少し余裕を持ってもう一度読むと、自分がどういう趣味なのかが自己診断できる上に、余裕によって「許容範囲が広くなる」ということも起きてくる。
どんなものでもそうだが、自分の趣味・好みというのはある。そして、それが自分にとっての正義または「正しい基準」になったりもする。好みのものを軸に評価判断をするようになるわけだ。

「俺はその程度じゃ怖くないぞ!」という恐怖への耐性を誇りたい系の人というのは、当然ながら自分の好みの恐怖以外には否定的になる。「怖がらせて欲しい」という欲求はあるものの、好みの特化によってそれだけ「怖がれる対象」を自ら絞り込んでしまうので怖がれない。

逆に「どんなものにも恐怖を感じたい(=恐がりなのに怖いものが好き)」系の人は、「恐怖耐性を誇りたい人」にありがちな強がりや、「排他的な恐怖選択」が少なく、いろいろなものに恐怖を感じられる。広がりがあるというか、「怖いモノを怖いと思う機会」は恐怖耐性を誇りたい人よりも多くなる。


超-1は「超」怖い話の読者による審査を経るため、当然ながら「超」怖い話のコンセプトに連なる怪談が評価を受けるだろうと思う。
だが、「超」怖い話のコンセプトというのは、文体じゃなく生理的グロさの強調でもなく(笑)、「どんなものでも怖いんだよ」という恐怖の広がりにあるのではないかな、と超-1を通じて思った。
実際、超-1で高評価を受けたものはそうした傾向が強いような。
一方で、超-1で講評者の評価が割れるものというのもある。それはまさに、「恐怖耐性を誇りたい系」と「なんでも怖がりたい系」の好みの差が現れているのではないかとも思う。


全509話とそれらに施された幾多の講評というのは、今後の「超」怖い話の方向性や実話怪談を求める人々の傾向・心理を考える上で、とてつもなく大きな考察材料になっている。しかも、オープンな。


十分堪能していただきたい。いろいろな側面から。



PS.
……ああ、しかし、目覚めても新着チェックをしなくてもよくて、更新作業もやんなくていいというのは、なんとすがすがしいことか(笑) 人生を有効利用できそう。ちょっと散歩でも行ってこようかな。