集計作業開始〜

今度こそほんとのほんとに作品公開完了。もうないよ。もうないからね。
というわけで、最終的な総応募作品数は、529話でした。*1

そんなわけでぼちぼちと集計作業を始めた。
まずはblogで講評をされた方のうち、比較的早い段階で講評を断念した人(笑)*2のデータを集中的にピックアップ。
一時間ほどで3人分のデータをピックアップできたが、パーフェクトレビュー達成者は一人につき530弱のレビューを書いているわけで、これは応募者よりもある意味で偉業かもしれない。

見ていくとおもしろいのは、配点と批評の内容が必ずしも一致していないこと。
内容は2/3以上褒めてるのだけど、配点はマイナスとか。不満な点を並べているのに、配点はプラスとか。
blogからの講評(TB講評)は、±3点で配点幅が大きくなる。ご自身のblogの中で「うーん、これは1点、こいつは2点」と中間点を付けている方もいるのだが、今回はデジタルに「3点か0点か−3点」とばっさり切っていくことにさせていただいている。

また、内容を理解し、褒め、感心までしていても「好きな話じゃないから」という理由でマイナスを付ける人もいる。
そうかと思えば「完成度が高い作品だが、完璧じゃないから」という理由でマイナスが付く人も。画竜点睛を欠いただけで−3点。こりゃ配点は大荒れだなあ、という気も(^^;)

こうした「完成度が高いが完全ではない」というものは、点数の低さのわりに、内容評価は高いというパラドクスがより顕著に表れてくる。
また、最初にコメントした講評者につられて意見が近くなったり、または最初にコメントした講評者に反発wしてこじつけ/揚げ足取り/重箱の隅つつきになってしまっているケースもある。
「前の人と同じです!」という講評を見ていて、ふと小学校の教室の授業風景を思い出した(^^;)
もちろん、多くの人から同じ感想を導き出したというのは決して悪いことではない。それだけ著者の意図したことが読者にはっきり伝わったということだからだ。
文章が「著者の意図を読者に伝える」というコミュニケーション手段である以上、読者から「同じ感想」を引き出した文章は、その目的を達成しているといっていいと思う。


ただ、確信的に意図が伝わる文章が、怪談に向いているかどうかと言われたら、それは必ずしもそうとは言えない、かもしれない。
霞が掛かったような不安、1m先も見えないほどの暗い闇、闇の先にあるものがなんだかわからず、それを想像力を巡らせてドキドキする、そうした効能から考えると、怪談は多少なりとも「ピースが欠けたパズル」であり続けたほうがいいような気もする。著者から読者に手渡されたときに、いろいろな解釈が成り立つ余地がほんの少しだけ残っているもの。今大会でも、そうした「余韻の残し方のうまいもの」が、高評価を得ているような。

ただ、この「余韻」または「意図的に残された/隠された、怪談を不完全にしておくための差配」は、その配分が非常に難しい。
余韻を削りすぎればよほど著者の校正がうまくいっていない限り、読者は「読み進めて自分で気づく、その怪談に仕組まれた闇に怯える」という楽しみを著者によって奪われてしまう。著者は読者の行く道を照らしすぎてはいけないのではないか。
かといって、余韻を残しすぎる(=闇を増やしすぎる)と、読者は闇を恐れすぎて近寄らないというか、闇に足を踏み入れようとすることそのものを、人によっては拒絶してしまう。頭ごなしに「疑わしい」と切り捨ててさえしまう。読者がどの程度の「想像力のキャパ」を持っているのか、それは著者にはわからない。
が、いろいろなレベル、段階の読者が同時に読んだとき、それぞれが「違ったベクトルの恐怖」を同時に感じ、それぞれのレベルで満足できるものが書けるのが、ベターだと思う。
もし恐怖の入門段階にある読者がその怪談を読んだ場合。何年か、もしくは何週間か怪談の修行(笑)というか、他の怪談を読み重ねて「恐怖の引き出し」を増やした後に、もう一度最初の怪談を読んだら、まったく違う恐怖があることに気づくかもしれない。著者の残した「余韻」または「読者が想像する余地」は、そのようにして同じ怪談を同じ読者が二度以上読んだときに、異なる恐怖を二度以上与えられる。

「何度も読める怪談」と「不完全に作られた、想像の余地を読者に残した怪談」というのは、このようにリンクしているんじゃないかと思う。
今もし、安藤時代、樋口時代、初期平山時代の「超」怖い話を読み返したら、最初に読んだときとは違う恐怖の手触りを感じられるのではないか。

「超」怖い話が長くご愛顧いただいてきたのは、「何度も読める、読み返して記憶に深く刻まれた怪談」であったからではないか、と思う。
何度も読めたのは、完成度が高かったから、ではないと思う。
むしろその不完全さ、読者にゆだねられた部分こそが、読者の成長(経験の蓄積)に対応し、それ故に「何度も読み返せた」のかもしれない。


超-1でもまた、そうした「何度も読み返せる」「発達段階の異なる怪談読者が、どの段階にあっても自分なりに消化できる」「そして、それを人に伝えたくなる」ものが、低からぬ評価を得ている。
文体ではない。
ネタの毛色でもない。
そのRereading=再読性の高さ、柔軟性、それを成らしめる不完全性が、「超」怖い話のスタイルであるのかもしれない。




……とまあ、そんなことを、いつも「にぎわってるとこ」からの刺激から思いついた(笑)。
こういうことは、忘れないうちに書き留めておかないと、ってことで。ハイ。
超-1については、知りたいこと聞きたいことがある人も多いと思うのだが、無事集計が終わって「超」怖い話Θが出て全部発表されて、そのとき改めて、ご挨拶に伺いたいと思っている。

応募作の公開は終わり、講評ももうじき一息つく。
超-1に参加された応募者、講評者、外野wの皆さんは、それぞれそれなりに超-1を堪能されたんではないかと思うのだが、どうでしょう。

外野席「OutField」の仕掛けのうち、「キタコレ」に上がってるタイトルは、高い確率で超-1作品集に入ることになるんじゃないかと思う。これからまだキタコレの順位の上下はあるだろうし、60何作もは第一巻に入りきらないから(^^;)、確証はしないでおく。

また、「著者推理」と「マイ作品集」は、講評集計後にエントリー番号が、さらに結果完全発表後に「正解著者名」が表示されるようになる。弄って楽しむなら「イマノウチ〜」である。


そして、超-1の結果発表がなされた頃には、すでに僕は超-1作品集の編纂に取りかかってるんじゃないかなーと思われる。
普段の年は、「超」怖い話を入稿し終わった後は怪談毒(笑)から解放されて8月は暇になるはずなのだが……今年の夏は、どこまでいっても怪談の地平から逃れられない。模様。

*1:公開後取り下げ作品1作を含む

*2:じがさん、てんさん、oktさんのblog講評はすでにピックアップ済みなので、講評はそのまま確定としてくださいm(__)m