ネタ合わせの話

毎回、台割を作るために「話の骨子を1行程度にまとめたメモ」を作っている。
今回はネタ合わせのために、新人二人にもそれをやってもらった。
取材内容をどういうメモにまとめるかは人それぞれなのだが、原稿にする前の段階でネタ合わせをするときに、互いのネタの概要を一目で把握できるように話の骨子を1行にまとめておくというのは大変役立つ。
例えば、「心霊スポットで仲間を置いて逃げた。戻ってみたら発狂してた*1」というような感じ。
もちろん、途中にはいろいろ葛藤があったり、特別な前提があったり、異常な例外があったりで怪談は成立していくんだけど、「要点を一行で」という方法でまとめてしまうと、案外さっぱりする。
この状態でネタ合わせに望み、「具体的はこういう話で」という簡易百物語会になる(笑)
そのネタ合わせで「是非怪談にまとめるべき」な話を優先して選んでいき、それは優先して書く。
一方、「ピンとこなかった話」や「口頭ではうまく伝わらないけど取材者の意欲が高い話」は、別口として書いてもよし、ということになっている。
口頭説明に多くを要しても、書いてみると1頁になっちゃう話とか、その逆というのはしばしばある。僕の経験では取材メモを簡潔にまとめられるものほど重厚な怪談になるし、要点を把握しきれずにメモが長大なまま未消化のものは、書いてみると案外ささやかな話だったりする。


自分の中だけでメモを消化できるかというと、思ったほどうまくできなかったりもする。
人に話して反応を見て、原稿の形にして反応を見て、それで要るところと要らないところを判別する。馴れてくるとその作業を自分の中で完結させることができるようになってはくるのだが、それでも自分の目と判断だけに頼っていると、どうしても偏りが出てくる。偏りというか、「馴れと好み」で自作について偏った嗜好に基づく判断しかできなくなってしまうわけだ。これはイクナイ(・A・)!!
この自家中毒的な状態に陥って抜け出せなくなり、自覚はできているんだけど脱出方法が見つからない状態というのが、世に言うスランプなのだと思う。
自分の中に異物としての他人の意見を入れることで、ループからの脱出が可能なのだが、なまじ自分なりの方法論に固執拘泥してたり、長くやってきてそれなりの方法論にそれなりの自信を持ってしまっていたりすると、頭で判っていてもそこから抜け出せない、ということが起きてくる。
長く続けるということは、それだけ自分が歳を食い、後から来た人々よりほんのちょっとだけ長じて上のほうにいたりする、ということでもある。もちろん、長く続けた経験は財産ではあるんだけど、後から来た人の声を聞き入れることに抵抗が出たりという弊害も出る。


イオタでは、新人の原稿を見る、直すという作業はもちろんのこと、同時に僕の文章を新人に叩いて貰おうとも思っている。いずれ僕の癖が彼らにも移るだろうし、逆に僕のほうが彼らのいい所をどんどん頂いてしまうかもしれない。
チームで仕事をすることのメリットは、支え合えること、影響を与え合えることでもある。
そして、最大限の成果を出した結果、「チームの仕事」として評価を得られれば、そのチームに属する全員が評価の恩恵を得られる。曲がりなりにも僕が【「超」怖い話の加藤】と分不相応な肩書きを頂戴できたのも、先代編著者の方々とチームを組ませて頂いたおかげでもある。
今後は「超」怖い話というタイトルが、新人二人に今以上の実力とそれ相応の評価を得るきっかけとして機能すればいいなあ、と。
「超」怖い話というカタパルトの司令官として、まずはこの新人二人を早いところ空に打ち上げたいものだな、とゲラを読みつつ、つくづくそう思った。


超-1で出会った人々に、実話怪談を今後も発表していける場を作り、継続してそれを続ける機会を作っていくことがライフワークになっていくかもしれない。それはそれで怪談苦手な僕が怪談の世界に身を置き続けることの理由なのかも。
人生ってわからんな。ほんと。


そういったわけで本日もゲラ。
新人や小人さんのゲラがぼちぼちと返送されはじめてきた。
並行して進めていた表記統一作業も一段落した。
ここからが正念場。

*1:これは一例。特にどの話ってわけではないけど、このパターンってある種の定番だ(笑)