格差問題を簡単に理解する

ちょっと脳が煮えてきたので、息抜き。
脳みその体操として、もうずっと言われっぱなしの格差問題を簡単に理解する。


格差問題というのは、簡単に言うと
「いい思いしてやがる奴らと、そうでもないオマエラ」
という図式に、煽動される側が「オマエラ」にはめ込まれることで説明されている。
「オマエラは貧乏だ。いい思いしてやがる奴らに比べて格差がある。いい思いをしてる奴らをぶっつぶせ。格差を解消せよ」
というアジテーションが識者の言葉として声高に叫ばれていて、「貧乏なオマエラ」に区分された人々が「そうだそうだ」と嫉妬の炎をメラメラ燃やしているわけだ。


この格差問題を叫ぶ煽動者が、どういう結論(要求)を掲げているかというと、
「結果が平等・公平ではないから、結果の平等を!」
というもの。これは、「貧乏なオマエラ」とされる人々にとっては非常に心地がいいし、賛同もしやすい。今、置かれている状況に不満がある人は、自分にとって妬ましい人(例えば、経済的な成功者でもいいし、社会的な成功者でもいいし、もっと下世話な例に置き換えるなら美人でも恋愛の勝者でもいい)の成功が許せない。
自分にないものを得ている人がいるということは、相手のほうが所有物・財力・その他の点で優れている、自分は劣っている、ということを認めなければならないということだからだ。


全てが努力で解決できるものばかりではないが、例えば経済的な問題や社会的問題などについては、努力によって改善したり、成功者と同じものを手に入れることはできる。そのための機会がないのだとすれば確かに不公平だ。だが、機会は常に均等にある。働けば金は貰えるし、工夫したり頑張ったりすることで改善できることは多々ある。
裏を返せば、成功した人達というのは努力をしたり工夫をしたり、人より先に何かに気付いたりした結果、そうした成功という果実を手に入れているわけで、ナニもせずに運だけでそうした結果を手に入れたわけではない。


今、巷で言われている格差問題の解消方法として、煽動者に暗喩されているものは、
「結果の均等」
であったりする。
つまり、努力して成功した奴を引きずり下ろし、努力が報われなかった奴に再配分せよ、というもの。そうすれば結果は近くなり、結果の均等の実現に近付く。


この結果の均等の正体というのは何なのかというと、ぶっちゃけていうと原始共産主義がそれに当たると思う。つまり、生産効率に差があっても、同じだけの成果が分配される、というもの。努力しても努力しなくても同じだけもらえるのが共産主義というものだが、これは20世紀最大の社会実験としてソビエト連邦他の共産圏で実地採用された。

戦後、共産主義圏(東側諸国)は膨張し、資本主義社会(西側諸国)と冷戦状態が形作られたが、共産主義はどうなったかというと一部を残して次々に崩壊した。ソ連は崩壊し、東ドイツは崩壊し、ベトナムは資本主義経済を採用し、中国は共産党体制のまま資本主義的市場経済にシフトした。いずれも、「うまくやった分だけ儲かる」つまり努力が報われるシステムに変わった。


共産主義は完全に消滅したわけではないのだが(例えば名目上は共産主義北朝鮮など)、なぜ失敗したのか。
これが、「結果の均等を求めることは間違いである」という結論の説明と重なる。


「努力しても儲かった分は、努力しなかった奴に回される」
これが結果の均等で、努力しなかった(足りなかった)者にはメリットがあるが、努力した人間にメリットがない。努力しても報われず、努力しなくても同じだけ貰えるのなら、「できるだけ努力をしない、効率よく怠ける方法」を考えるのが人間の自然な摂理であるようで、共産主義社会ではサボタージュが常態化した。
努力をして他人よりうまくやっても評価されず、人より抜きんでた(=目立った)結果妬まれ、成功の足を引っぱられ、責任ばかりを負わされる。そうなるよりは、「何もせず、努力せず、新しいことはせず、うまく怠ける」ことを考えたほうがマシだということになる。つまりアレだ。「働いたら負けだと思ってる」って奴だ。


その結果、共産主義社会は社会的な活発さが失われ、進化や発達が損なわれ、生産力が低下した。ソ連末期の慢性的な物不足(配給制と行列)、進化の止まった北朝鮮*1、その他多くの「結果均等を目指した国」は崩壊した。
つまり、結果の均等を求めることは、生産力・競争力・購買力をひきさげ、今よりもさらに大きな社会的貧困に、社会全体を向かわせる可能性が大きいのだ。


今、日本国内で格差問題、成功者へのルサンチマンを煽り、結果の均等を叫んでいる人々の多くは、学生運動*2を経験しているのは偶然ではないだろうと思う。
負け組、ニート下流社会、格差問題、というキーワードを使って、「負け組の奮起と叱咤激励」を促す振りをしつつ、「結果の均等」を嘯いているのは、誰なのか。


そんなわけで結論。
努力する人が報われる社会において、格差(隣の青々とした芝生)というのは必然的に生まれるものである。羨ましい隣人を自分と同じ境遇に落とすことで溜飲を下げるとか、努力せずに結果の均等だけを叫ぶさもしい人間ばかりが増えると、埋め合わせをしてくれる、とアテにしていた成功者は馬鹿らしくなって、わざわざ努力などしてくれなくなる。


機会はいつも均等にあると思う*3
つまり、誰かにいいように踊らされることなく、みんなで頑張りましょう、ということになるかと思う。



……すっきりしたか?
さあ、仕事に戻るんだ、自分(^^;)

*1:あの国には、貴族的な独裁者がいることがさらに問題をややこくしているのだが、韓国に入国した脱北者は、とにかく働かずに利益を得ようとするばかりで、韓国でも社会問題になっている

*2:学生の理解と主導により、日本に共産革命をもたらそうとした。が、高度成長期の到来と伴に挫けて、ゲバ棒とヘルメットを脱いだ。結果として、バブルを経て勝者と敗者に分かれた。

*3:まあ、分野にもよる