情報の取捨選択は誰の責任ですべきか

前エントリーが長すぎな上、ちょっと脱線しすぎそうな気もするので、あえて初音界のネタとは別エントリーで。


メディア・リテラシーという言葉が世の中の表側で使われるようになって久しい。この言葉はぶっちゃけて言えば「新聞・マスコミの全てが真実を言ってはいないから、嘘・デマに踊らされないよう、正しい情報の発信を発信者に期待するのではなく、情報をしっかり精査して正しい(と自分が信じた)情報を受信者自身が選択するようにしなさいね」ということだ。
つまり、マスコミ(に限らないけど)などあらゆる情報発信者は、自分にとって都合がいい情報を流すが、それが真実と合致するとは限らない。つまり、嘘、大げさ、紛らわしいものは多分に含まれているのだが、現在のマスコミのそうしたニュースを禁止する法律がない(表現の自由をタテにw)ため、多くの人々は「新聞やテレビが言っていることは、すべて正しいはずだ」という信頼をよせてきた。
が、ネットの発達によって「そうでもないよ」と考える人も増えてきた。ソースが同じでも解釈や解説の仕方、誰の立場に立ってそれを説明するかで、内容がガラリと変わってしまうことがある、だから、「情報発信者が、誰の利益を代弁する立場に立っているかを見抜きなさいよ」というのがメディア・リテラシー

で、このメディア・リテラシーという考え方を2ちゃんねらーにわかりやすくw言い換えると「嘘を嘘と見抜けない人には、ネットの掲示板を使うのは難しい」という、ひろゆき氏のアレになる。
見抜く、見抜けるかどうかはともかくとして、ネットの掲示板(掲示板に限らないし、実はネットにも限らないが)では、もっともらしい嘘が跋扈していて、そうしたもっともらしい嘘を禁止することは、ほとんどの場合できない。
つまり、それが嘘であるかどうかは、嘘を吐く>1を禁止することではなく、嘘を見抜く>2-999(或いはROM)に委ねられる。


この考え方をツールとして発展させたのが、2ちゃんねる専用ブラウザの多くに実装されているNGワードあぼーん(非表示)する機能。
情報発信を規制しない代わりに、情報受信者側が自分の持つ内的基準・個人的判断に基づいて、自分が受け入れたくない特定キーワードを選別して予め設定することで、非表示(=目に付かない)にすることができる、というものだ。
これは、情報発信そのものは阻害されていないわけだから、情報の発信の自由/表現の自由を阻害せずに、情報受信者側が「自分にとって許容できない情報から目を逸らす」ことを実現した技術と言える。
それでは物足りない人は、「自分は見たくないから、他の人にも見せたくない」と考え、そうした嘘つき*1に対して、「うるさい、黙れ、お前は喋るな!」という強制を行おうとする。
この強制を行う人間が何らかの権利や権限を持っていれば、例えば自分が運営する掲示板やblogに、自分にとって受け入れがたい内容が書かれれば、自分の行使しうる権限をフルに使って他のコメントを削除しまくったりする。
が、多くの場合、そういう物理的方法では他人の口に戸板をかけることはできないし、結局は自分にとっての耳障りな声は「目を閉じ、PCの電源を切り、窓から投げ捨てる」という方法でしか排除できない。つまり、発信者を抑制するのではなく、結果的に受信者が受信情報を選別することでしか、その当人にとっての不快情報の排除は実現できないわけだ。

一連のデP削除問題は対象が初音ミク関連の猥歌であったことなどが事態をややこしくしてはいるものの、「自分(特定の人間)にとって、他人に聞かせたくはないものを、強権によって排除しようとする」という行為が実際に実行された結果どうなっているか、というものと見ることは出来る。その場合、「特定の人間」は権利者であろうと権利者を騙った第三者であろうと問題ではない。「自分が気に入らないものを他人にも見せない」ということを正義として通したという事実が残る。


2ちゃんねるに限った話ではなくて、パソコン通信しかなかった1980年代の電子掲示板などでもよく言われていた話で、「嫌なら見なきゃいい」というのは、結局のところもっともコストが掛からない問題解決(棚上げ)方法であるようにも思う。
これを積極的に同調者を募れば「不買運動」と言われるものになるし、冷静に行えば「メディア・リテラシー」と呼ばれる。
まあ、そんだけのことであるかな、と。








電子掲示板……てなことを思い出したら、本項と全然関係ない話も思い出した。
そういえば、1990年代初頭の頃、つまりはまだクレギオンが始まる前で蓬莱学園の冒険!で旧図書館醍醐寺整頓隊副隊長・楠原笑美とかいた頃、お料理研究会創設者・野尻三奈という人がいた。当時、KGBという巣窟のようなパソコン通信ホストで、猿のようにリレー小説を書きまくっていたことがあって、そのとき話の端々に野尻三奈が登場しては美味しいところを持って行かれてしまうということがあったことを、ぼんやりと……。まだテレホもなかった時代、もちろん通信料は従量制で、繋いで最新の内容を確認、大あわてで続きを書いてUPしに行くと、もう他の誰かがアンサーを書いていてorzというのを繰り返したことで、今の自分のタイピング分量と速度の基礎が培われたのだった。
あの頃の皆様、今は散り散りになってしまいましたが元気にお過ごしでしょうか。カラオケで「時には昔の話を」とか歌うとやたらあの頃を思い出すのは、もう歳喰ったということでしょうかw

*1:とは限らない。言っている内容は実は真実かもしれないが、受け入れがたい真実かもしれない