模倣と自分流

昔、初めて楽器に触ったとき、運指の練習のために既存曲のコピーに明け暮れていたことを、なにかの折りにふと思い出した。
よく聞き込んでよく知っている曲で、うまく歌えてもうまくは弾けない。そのもどかしさから、ムキになって練習したものだった。
そういえば、G-Motion/Wheelmanも最初はとにかく全然乗れなくて、自分でもびっくりするほどの勢いで衝動買いした挙げ句に、驚くほどの根気を発揮してw、ムキになって努力の末に乗れるようになったのだった。
乗れないときは、なぜ乗れないのかがさっぱりわからないんだけど、乗れるようになると今度は「なぜ乗れるのか?」がわかってきて、それを他の人にどういう原理で乗れるのか、というのを説明するのが楽しかったりで、ことある毎に自慢したり人に薦めたりするんだけど、結局去年は多忙で乗れませんでしたorz そういや今年もまだ乗ってないよ。


初音ミクなどVocaloidの類もそのへんは同じで、リアルタイムでのフィジカルな演奏技術は不要であっても、ソフトウェアの操作と運用には、ソフトウェアの機能の理解と操作のためのそれなりの反復練習とが必要であることは当たり前なわけで、固い頭をほぐしつつときどき起動してはちょこちょこと弄っている。
やはりこうした練習は、模倣から始まる。他人様のVSTファイルを見たり弄ったり、カラオケ使ったり、耳コピしたり、そうやってツールの操作方法に慣れ、メロディとコードの関係などの音楽理論の基礎みたいなものを独学ながらも理解できてきて……ようやくそこに、「自分なりの解釈」や「自分にとって心地よい改変」を加える余地が生まれてくる。
リバーヴの量だったり、ビブラートの幅だったり、そこには公式絶対の正解があるわけじゃなくて、自分にとって心地よいパーソナルな正解があるのみで、他人が作ったその人なりの正解が、自分にとって居心地が悪いと思うようになり、それを自分にとって心地よいものに直すことができるようになってきたら、自分流――オリジナルの発生までは時間の問題だ。


怪談のように、文章を連ねることもこれと同じで、いきなり自分流を確立しようというのは、講習も訓練もせずにイメトレだけで旅客機を操縦しようというのと同じくらい無理がある。
既存の作家、成功しているスタイルを読み、その文章を写経するがごとくそのまま書き写して真似をする。一言一句漏らさず写すくらいやったほうがいいかも。
そうやって、文法だったり全体の構成だったりを自分にまず転写する。これは楽器の運指の練習のために、既存曲のコピーをするのと同じ。絵画の世界でも、最初は模写から入る。マルスやヴィーナスのクロッキーだって、既存物の模写。画集に載ってる名画を一生懸命書き写すのだって、その画家のノウハウや能力を自分の中に流し込む、基礎訓練と言っていい。
先行者の発明したよくできたスタイルを真似て、そのスタイルを自分の血肉にして、構成や意図を理解してそれも自分自身のものにして――その上で、物足りなさを感じたら自分なりの解釈や説明文を付け足したり、割愛したりして書き換えてみる。
そういえば、文章書き始めたごく初期の頃、そうやって一生懸命書き写した「文学上の名作」を、自分流に書き足したり削ったり言い換えたりして、原作レイプをやったっけなあ(^^;) そういう模倣や原作レイプという下地は、結果的に「自分は何を物足りないと思い、自分に不要だと思えるのは何か」などを自覚する手助けになった。
というより、真似をしているうちに「直そうと思ってもなかなか直らない癖が染みついた」という感じで、自分にとって直そうと思ってもつい出てしまう癖・手癖というのが、「個性」と言われているものの正体なんじゃないかな、と思ったりもした。
そうやって、他人を模倣し、それを自分に心地よい形に改変したり「拡張」したりしつつ、自分の持っているネタ・アイデア・体験談などを代入しながら反復練習を繰り返していくうちに、気が付いたら今のスタイルになってた。気に入ったものには影響を受けるし、よく接している人、もの、言葉は気が付いたら自分の血肉になってる。


そういったものを拒絶して、「前と違うことをしないとダメ」「誰にも似ていない自分流を自力で獲得」「常に他人と違うスタイルであろうとする」ということばかりに拙速に飛びついても、たぶんうまくいかない。
基本というのはひとつではないんだろうけど、なにがしかの基本や基礎を踏まえずに、いきなり多くの人の支持を得られる自己流・自分流を確立しようというのは、無謀……というより虫が良すぎるorz


遠き小僧時代(というか丁稚時代w)、「おめーは、基礎をちゃんとやってからだ!」と、あらゆる局面で言われてたなあ、ということをときどき思い出す。楽器始めたときも、柔道やってたときも、絵を描いてたときも、文章を仕事にし始めたときも、そのときどきで師匠は全部違う人なんだけど、総じて僕の多くの師匠達が言ってたことは、どれも繋がってるし異口同音に同じことを言ってたような気がする。


まあでも、基礎をやってくうちに「もっとこうしたい」「このほうがもっといいはず」という閃きが落ちてくることはあって、それが個性(というか、手癖w)の芽生えなのかもなあ、とか思わないこともない。


独自のスタイルを獲得したことで、それによって成功して評価を得た人は、「自分だけのスタイルを獲得する(した)」ということが評価の拠り所、或いは自信の拠り所になる。そうなれ、そうあれというアドバイスは一面として正しい。
一方で、よく練られたスタイルであればあるほど、絶えず模倣の手本ともなる。例えば「稲川さんの語り口調」は、怪談朗読/語りの金字塔を打ち立て、あらゆる文章を怖く聞かせる手法として確立されている半面、稲川調に書いたり喋ったりする芸人さんも登場した。確立された手法であればあるほど真似られやすく、それを「自分だけの独占物」にし続けるのは難しい。スタイルには独占的権利というのはあってないようなものだし。*1
そんなわけで、独自性の獲得の前に基礎の基礎を身体に染みこませよ、というようなことを言ってみる。それは、たくさん書くことでしか身につかないんだよなー(´・ω・`)


オリジナル曲を作曲だの、初音ミクを使いこなすだの、粉モノ料理を作るだの、怪談を書くだの、そういったことは僕の中では全部一体になってるというか繋がっているわけで、どこから書き始めてもどこから考え始めても、同じ哲学で語れちゃうよなー、とか思った。

*1:夢枕獏が登場した後、雨後の竹の子のように類似文体の作家がプロアマ問わず出てきて、そこから藍より青くなってしまった作家もいたことなどを考えると、独自文体の獲得と完成にばかり気を取られてしまうことが無為に思えてくるときもある(^^;)