読解

実話怪談というのは不思議な読み物で、書きすぎるといけなかったりするのだった。僕などは日常はブレーキを踏まない文章ばかりで無駄にだらだらと長い悪癖があるのだが、この調子でだらだらと細かく細かくねっちりと書きすぎてしまうと、怖さが薄れてしまうことがしばしばある。
必要なことは抑えておかないといけないけど、書きすぎてしまうとなぜ怖くなくなるのかと言えば、読者の想像の余地を奪ってしまうから、ということになる様子。詳しい人には今更の話で諄く、詳しくない人の興味を掘り起こせなければただただ長いだけのうざい文章となり、挙げ句の果ては「わかったわかった皆まで言うな、後はこちらの想像する楽しみを残しておけ」というわけで、御意である。
全部くまなく書かないことによって、読み解く側は「幾つかある可能性を想像する余地」が生まれ、さらには結論を断じないことによって「間をおいて、想像しうる可能性の選択肢が増えていれば、再読も可能」となる。読み返すたびに「実はこうだったのかも」という、書かれていないオチ、展開、話の裏、因縁などに思いを馳せることができるわけで、そのあたりの広がりを阻害しないものが「超」怖い話などでは好まれていたように思う。つまりこれは、読者自身もまた「解釈者」として作品を成立させる重要な存在になっているということなのだが、解釈者の能力に出来や評価が左右されてしまうというのは、画一的な結論の共有を目指す場合にはあまり望ましくない。
もちろん、「実は自殺が」「かつては墓地で」「霊能者によると」という、原因を断定するタイプの実話怪談も依然としてあるし、そういうものの人気もまったくないわけではないけれども、一定の結論が出てしまっているもの(=安心できる怪談)は、二度目以降の再読はあまりなく、読み捨てられたり売られたりということになるのだろうなと思う。
作者としてみれば、できれば売り飛ばされたり一度だけ読んでしまい込まれたりせず、何度も読み返され、教室や職場や仲間内を点々と読み回され、多くの人の目に触れ続けるほうが嬉しい。そうなると「一度で全ての謎が解ける」「二度目を読んでもオチは同じで、二度読む必要がない」という再読の必要性が薄い読み物になってしまわないように、読者・読み解く側の想像の余地を残したもののほうがよい、ということになる。
一方で、そうした想像の余地がなく結論が断定されていないと納得しない、というタイプの読者もいる。恐らく量を読む人に多いのかもしれない。次々に新作を読まないとならないから、一度で結論がわかるものが喜ばれ、二度、三度と同じ本を読み返すようなことを強いるのは悪い本だ、と考える。著者としての結論は何か、読者に依存せずに著者の結論を示せ、出した謎は著者が全部解け、というもので、これはこれで正しい。物語に「解決」を必要とし、読者の全てが結論を共有しなければいけないという前提があるなら、間違いなくこの考え方は正しい。
小学校の算数・数学や理科は明確な公式と誰がやっても同じになる回答があって、そうでなければいけなかった。社会の場合は、年表や歴史上の人物名、施設名、事件名などは確実な回答があって、暗記までしなければならなかった。
国語の授業では、テキストを読んでそこから読み取れることを説明しなさい、ということがしばしば行われた。
これは、主人公の感じたことを主人公の視点で理解しなさい=自分以外の人のものの考え方をトレースして、現実の生活でのコミュニケーションに必要な想像力を貯えなさい*1、であったり、主人公をとりまく人間像や背景社会を理解することで、主人公は何が理解できなかったからうまくいかなかったのかを、神視点や脇役視点で考えなさい、というようなことを期待された設問だった。
子供の頃、これと同じようなことを質問する美術の先生がいた。
その先生は、「それが正しいと思われていることは、一般論やそうであってほしいという願望であって、本当は違うかもしれないよ」というような、謎かけのようなことをしばしば言っていた。
人の心に答えなんかないのであって、「もしかしたらこうかもしれない」というのは、幾らでも考えることができる。ひとつの結論に向かうのではなくて、たくさんの可能性をひとつでも多く考え出すことのほうが重要だ、というようなことを言いたかったのかなあ、と大人になった今では思う。もう何十年も前の問いに今更答えが出てもその先生に確かめることはできないのだが*2、なるほど「そうかもしれない。だけど違うかもしれない」とばかりに、正解に安住しないという考え方をしてみるというのもおもしろいものなのかもしれない。
小説の場合、作者には明確な意図があるのには違いないし、それを伝えて明確な意図を読者に共有してもらおうというのは絶対的に正しい。作者にとっては。ただ、それを完全にしようと思ったら、読者には作者と同じ知識と哲学と判断基準と価値観と、そういったすべてを共有してもらい、作者の分身・作者の信奉者にまでなってもらわなければ難しい。現実には不可能なことだ。なぜなら、多くの人は違う土地、違う時代に生を受け、違う教育、違う経験、違う友人を経て成長する。多少似通った経験やある程度共通の経験は持っていても、それは完全に一致することはない。故に、誰かと完全に一致する考えを持つことはできない。
だからこそ、少しでもわかってほしかったり共有してほしかったりという欲求を満たすために、「私はこう思うのです」と考えを書きだして理解を請うのが、文章を書くという作業の根底にあるんだろうなあと思う反面、しかし完全に答えを共有することは不可能だから、それを逆手に取って「問い/謎を共有し、異なる解を導きだすことを楽しむ(違いを楽しむ)」というやりかたもあるかもしれない。
怪について、あったることとした上で投げっぱなしにし、それらについて「本当だ、ウソだ、マヤカシだ、作り話だ、いやいや真実だ」と百花繚乱喧喧囂囂する、違いを違いとして結論を共有しないというのが実話怪談の愉しみといえば愉しみなのかもしれない。
小説は結論を喧伝して結論を共有したほうが楽しいのか、謎を共有して結論は分かち合ったほうが楽しいのか。正しい正しくないは別として、楽しいのはどちらかなということを考えたとき、「それならこういうのはどうだろう?」という可能性を次々に提示していったらおもしろいだろうな、と思った。遺伝記のルーツに当たる作品群も、その血を引く遺伝記もそうだけど、読者が読者のままにいるのではなく、読者が作者にシフトするならなおのこと、読解の後、結論を共有しないで「そうきたなら、これならどうだ?」と展開していくのは思考実験としてこの上なく楽しいと思うが、どうか?
もちろん、この問いにも共有できる完全な正解などないのであって、その問いから導きだされる様々な解を愉しめばよいのではないかと思うのだった。

*1:「相手の心情を思いやりなさい」「相手がしようとしていること、したことの意図を、相手に言わせずに想像して読み取りなさい」ということであって、実に日本的な「和と配慮」のコミュニケーションの原点は国語教育にあるなと思う。

*2:もしかしたらもう故人かもしれないし