100話突破。

7/15から開始した遺伝記が、7/25本日公開分で累計100話を突破した。
これは7/15以前に公開された種作品18話も込みの数字なのだが、それにしたってちょっと凄い。
超-1/2006〜2008までの100話までの伸び率と比べてみるとこう*1

起点からの▼は一週間単位。
四つの線のうち、青は超-1/2006、橙は超-1/2007、緑は超-1/2008、そして赤が遺伝記。*2
このグラフでは、遺伝記は種蒔き初日(7/8)を起点としているので、厳密には応募作のみで100話を超えているわけではない。一般応募作の公開が始まったのは、このグラフでは一週間目から。それを込みにしても応募作品の増加曲線の角度が急すぎる。それだけコンスタントに作品応募が続いている状態にある、と言える。10日近く息切れしていない。


実話怪談はまず取材ありきであるため、文章力があろうと構成力があろうと、取材しなければ書けない。*3
これは「怖い話を書きたい、けれどネタはない」という人にとっては大きなハードルというか障害でもあるのかもしれない。
それが故に、実話怪談を求める超-1では「取材できる人」「ネタを集められる人」=「数を書ける人」が有利になるようなシステムになっているのであるが、そうそうホイホイと取材できる才能は稀少なのと、超-1はいつも「今年もやります、今日からやります」という具合で事前告知がほとんどないこともあって、開始直後は応募数があまり伸びない。


逆に遺伝記は、ほんの僅かな日数ではあるけれども、開催についての告知があり*4、手本としての種作品の公開があり、ネタ取材の必要がなく、文章力と想像力のみを武器として参戦できた。「公開中の既存作品とのリンク」「植物と関係があること」というルールは、あまり大きな障害にはならなかったようで、こうなると後は例によって「量をこなせる人が有利」ということになる。


超-1と遺伝記の共通点は審査方式のみで、後は実話か創作かの違いと受け取られがちだが、実はそれはあまり重要ではない。
超-1、遺伝記はどちらも「量産できる人」「量を書ける人」が有利になるようになっている。これは、超-1なら「取材力がある人」が、遺伝記なら「着想が尽きない人」が有利であるということなのだが、単にたくさん書いたというだけでは有利にならないのは、超-1/遺伝記の参加経験のある人なら心当たりがあるところ。

  • 評価の低いものを量産すると、それらはすべてマイナスに作用する
  • 評価の高いものが書けても、量を書けなければ点数は伸びない
  • 評価が乱高下してでも、量を書く訓練を続けていくと、取材したネタの選抜眼と筆力が安定してくる。初期の赤点、挑戦的意欲作の失敗は後半で挽回可能

つまり、一発勝負ではなくて何度でもやり直しが効く、ということ。
言うなれば、超-1/遺伝記は「勝負を付けるところ」というよりは、「共同公開練習」であると言ってもいいかもしれない。
書けば書いただけ厭でも上達する。ただし、書いたものを常に誰かに読ませて、その評価に耳を傾ける度量があれば、という条件は付くかもしれない。何が伝わったか、何が伝わらなかったか、なぜ拒否されたか。当たり障りのない褒め言葉よりも、そういった積極的でネガティブな講評の中から何を汲み取るかで、後半に大化けする書き手が何人いたことか。


遺伝記は早くも100話を突破した。
だがまだ、75日、募集期間60日の会期のうちの10日を消化したに過ぎない。このシステムは、参加者の鼻を挫き、プライドを磨り潰し、向上心のある者を無理矢理成長させ、「もっともっともっと」と急かす装置としてご評価いただいている*5。これも一重に、良い取材者、良い着想者が、良い怪異作品を書き続ける呪いを背負い込んでくれますように、という多くの読者の願いの賜であると受け取っていただきたい。
怪談の神はたぶん、「たった一作の奇蹟」ではなく「永久に怪異を追い続ける呪いに取り憑かれた生け贄」をお望みであると思うので。


さて、遺伝記。
締切間近となる9月には、奇蹟の傑作が連発されることを期待している。
そこまで保つ人は、たぶん皆バケモノになっているか、その萌芽を内に見出しているんじゃなかろうか。

*1:一応、一部のみですが、公開されている各年度のリストを照らし合わせると、全体像が見えてきます。基本的な資料はすべて公開しているのでw

*2:遺伝記が急角度でゼロになっているのは、7/26以降のデータが未入力=0だから

*3:取材なりネタ提供なりを受けずに書かれたら、それは「実話を伝える怪談」には成り得ない。

*4:しかし誌面告知などはなかったので、Web告知のみ

*5:怪医の後書きなどでw