祝福されない

あと5時間弱で遺伝記の作品募集期限となる。
何しろ突然の開始であり、告知はほとんどなく、それこそ人知れず行われてきた企画ということになるのだけれども、それでも応募総数はどうやら300作は越えそうな勢い。
ヘンテコな企画、ワケのわからないルールに振り回されて、参加者の皆様には本当にご苦労をお掛けしました。
「自分にとっての渾身の一作が、他人に常に自分が意図した通りに評価されるとは限らない」
これっていうのはいろいろしんどい話で、「なんでわかってくれないんだ!」という心の叫びを経験したことがある人は数知れないだろうと思う。現在進行形で「なんでわかんないんだこのバカ!」と苦々しく思っている人もいたりするだろな、と。
そういう「わかってもらえない主張を、わかってくれない人にもわかるように伝える」というのが、書くということのもっともプリミディブな目的ではないかいと思う。流麗美麗な装飾や他にない個性的な特徴というのは、そうしたプリミティブな目的を叶えるためのテクニックであって、テクニックに走るあまりに所期の目的が果たされない、言いたいことが伝わらないのでは、文章を書く意味そのものが失われるのではないかと思わなくもない。
基本は、「いつ、何処で、誰が、どのように、何を、どうした」について、不特定多数の相手にきちんと過不足無く伝えるために文章を書くということなのであろうなとか。一対一であれば、相手に合わせてその場で伝え方を変えること、調整することはできるけれども、文章にするというのは「その場に居合わせない不特定多数の人」に向けた、一対多、1:nの情報発信であろうかと思う。そうであるが故に、受取手は常に同じ考え方、同じ思想、同じ情報蓄積量、同じ情報解析手段、同じ信仰を持っているとは限らず、むしろ自分以外の全てが「まったく違う考え方で、自分に対して懐疑的」であるかもしれない。
その場に居合わせず、反論ができない。
そういう状態で書いて、不特定多数の人の同意や賛意、主張に対する理解を引き出さなければならない。書くことそのものは難しくないけれども、書いた後に自分に対して為される様々な反応に「耐える」ということが、書くことを生業にする人に求められる、もっとも重要な「強さ」というか資質なのではあるまいかというのは、常々思う。
「人間は痛いのは厭なのだ」という話が、ホーガンの未来の二つの顔にちらっと出てくるんだけど、この痛みには肉体的痛みだけでなく精神的な痛みというのも含まれるだろう。
文章を書き、書いたものを発表するというのは、「自分と違う考え方をする人」「自分の考え方を理解しない/否定する人」からの反撃・批判という猛烈な痛みを伴う。これは、とてつもなく痛い。全身全霊を掛けて書いたものが否定されたのだとすれば、それは全人格の否定にも等しい。自分を否定されないために、盛んに反論を繰り返し、しかし相手は最初から反論や説明を受け入れるつもりがまったくなかったりするわけで、結論ありきの批判に抗うことはそれは精神の損耗でしかなかったりもする。そういう状態は、宗教戦争の萌芽の段階にしばしば見られるし、2ちゃんねるなどでもν速+を始めとする方々のスレで毎日見られる。
痛みを得ないもっとも楽な方法というのはひとつある。
発言しない、文章を書いても発表などしないことだ。
目立たぬよう、人目に付かぬよう、注目を集めないよう、とにかく息を潜めてジッとしている。そうする限り、誰の妬みも嫉みも受けることはないし、嫌悪の対象にもならない。
それはただ、自分の主張や考えについての理解を得ることにも繋がらず、ただただ孤独の中で耐えることを強いられる。
「誰からも呪われないけれども誰からも祝福されない孤独」
と、
「誰かから呪われるけれども誰かからの祝福も得られる苦難」
選ぶならどっち、というような。
書いたものを、自分について祝福をしてくれそうな人にだけ見せるというのも、痛みを得ないひとつの方法だろうと思う。褒めてくれる人にだけ見せ、貶す人には気付かれないようにする、というわけだ。理解を得、祝福を得るという快感だけを獲得できる。なるべく痛みを感じないで済む。不理解、不同意という呪いについては、耳を塞ぐか逆に呪う者を排撃することで自分を守ろうとする。
そういうやり方ももちろん否定しないけれども、それはたぶん、「自分の言葉に耳を貸そうとしなかった人にこそ、本当はわかってほしい」という難しい選択肢を放棄して、安寧の中に逃げ込むということなのかなと思わなくもない。
苦悩の中で自分を信じて書き、誰かに理解してもらうためにそれを発表し、不理解や不賛意の嵐に晒されて、それに耐える。少しでも多くの理解と祝福が得られれば、それは快感でありまたそれで「喰っていける」ようにもなる。いつも生臭い話でスミマセン。
それで喰おうっていうプロでもないのに、わざわざ望んで自分の主張を書き、発表し、祝福や呪いに晒される。超-1システムはそういう機会を人工的に作り出す装置であり、今回、遺伝記ではそのシステムを実話怪談のためではなく、さらにもっとストレートに「著者自身の主張、アイデア」が表される小説に援用したらどうなるか、という実験を行った。実話怪談であれば、どこかに心の逃げ道がある。「例え信じて貰えなくても、それは自分が考えた話ではなく体験者から聞いた話だし」という感じで。だが、小説は盗作でない限り「アイデア、文章、その作品が受ける全ての称賛と、その作品が被る全ての批判」は、作者自身に突き刺さることになる。作品の否定に逃げ道はなく、人格否定に繋がるものもあろう。
小説という文章を発表するということは、それに伴う痛みに耐える強さを求められるということであろうと思う。
多くの文学賞は、幾多の落選作の上に大賞受賞作という傑作が君臨するが、大賞作品以外の落選作は公開されないまま終わる。「落ちた」という事実以外に、「なぜ落ちた」というアドバイスはなく、また作品や作者を指定して、心を折るような激しい批判が与えられることもない。
傑作が祝福されるのは当然として、落選作が呪われることもない。それは穏やかに無視されることで、批判という打撃から応募者の精神を救済している。たいへん優しい仕組みであろうと思う。
翻って、遺伝記では必ずしも祝福されるばかりとは限らない。
多くの場合は呪いを伴う。




本日までの作品公募期間の後、2週間に及ぶ審査期間が残っている。
作品の多くが、祝福されるのか呪われるのか、それはわからない。
従前の感想を撤回して、審査のやり直しをすることも構わない。
審査〆切までの間、それは好きなだけ好きなように。
読者という、どこの誰とも判らない気分屋で決定力もなく無責任で、しかし猛烈に人数が多い最終消費者に、その身を投げ出して検分を請う。それが、「書いて喰う」ということの実態であり、超-1システムを採用した遺伝記もまた、「書いて喰う」という生活の実態を体験する仕組みと言えないこともない。かもしれない。


後、2週間。
耐えていただきたい。
祝福していただきたい。
呪っていただきたい。