Runner's High
高校時代からの友人に、青木邦夫*1という漫画家/イラストレーターがいる。
で、クニヌウヌウこと青木邦夫は高校時代、陸上部だった。(僕は美術部で図書委員会という黄金のエリート路線(笑))
ヌウヌウ先生はなんでかイラストを描くのに陸上部、しかも中長距離走の選手だった。
彼とは高校の三年間ずっと同じクラスで、卒業後も一時期ルームシェアしていたりしたのだが、高校時代の彼が「周りに漫画の話をする奴がおらん」とぼやいていたのを何となく思い出す。
ところで、同じ陸上でも中長距離というのは話を聞いているだけでもしんどそうだ。
体育の授業で走る4km走ですら、思い浮かべるだけで苦痛な僕としては、何を好き好んで中長距離なんか走るのか、その気持ちが全然わからん、とヌウヌウ先生に言ったことがある。
そのときの彼の答えは「いや、あのな。なんていうかな。チャクラが開くというか、中長距離を走ってると、だんだん気持ちよくなってくるんだよ」というもの。
最初のうちは苦痛のほうばかりが多く、なんでわざわざこんな苦しいことをしているのか、という疑問が沸いてくる。そのうちにその苦しみが快感に変わるのだそうで、その快感を目当てに走っていると彼は言う。
これはいわゆるひとつの「ランナーズ・ハイ」という奴で、肉体を酷使し脳が酸欠状態に置かれることによって脳内にアドレナリン、ドーパミン、だったかが大量排出され、快感を感じるようになる。要するに、ヌウヌウ先生は「記録のため」ではなく「快感を求めて」陸上をやっていたということになるわけだ。
後に、虫歯のヌウヌウ先生を見かねて「歯医者行けよ」と進言したら「いや、この痛みに耐えることで自分が偉くなったような気持ちに」とかヌカしていたので、あれはもしかしたら単なるマゾだったのかもしれない、と思うような気がしなくもない。
で、このランナーズ・ハイ。
これと似たようなことが、原稿を書いているときにときどき起きる。
書き屋にとって、書くということはさほど特別なことではなくて、それこそ書くことそのものは呼吸をするようなものだ。しないと死んでしまう。だからする。そして呼吸することをいちいち意識することは滅多にない。気が付いたら自発呼吸している。書くのもそれと同程度で、気が付いたら書いている。意識することもほとんどない。
ただ、「何を書くか」で悩むことはあるが、書くということそのもので悩むことはあまりない。
が、書くことが快感になるということがたまに起こる。
なんだか妙に快調に筆が進むことがあったり、悩みながら書いていたはずなのだが気付いたら「歌う速度で筆が進む*2」ことがある。こういうときは、非常に快感で、書くのを止めるのが惜しいほど。長い文章(例えば途中に切れ目のない長文、小説など)を書いているときはこれが途切れなくずーっと続くと、一日で文庫1/3分くらいを一気に書けてしまうことも起こりうる。
怪談本の場合、一本はそんなに長くないのでどうしても一話書ききったところで息継ぎをしてしまうというか流れが止まってしまうのだが、このハイな状態、いわゆる「ライターズ・ハイ」な状態に陥るとものすごい快感に包まれる。
もしかしたら、このライターズ・ハイを欲して原稿を書いているんじゃないのかなと思うことがときどきある。
これがずっと続くなら、3日で1冊書けるなあ、と思うのだが、ライターズ・ハイの後はなんだかぶり返しがきて筆がぱったり止まってしまったりもする。
なかなか思い通りにはいかない。
ともあれ、「どのように書くか」ではなく「何を書くか」に思い悩んでいる状態のときに、「これを書け」「こう書け」「彼について書け」「このように書け」というのが、矢継ぎ早に浮かんでくることがある。そうなると、生り放題の苺を片っ端から摘むようなもので、視界に入った「書くべきこと」を片っ端から書いていくことで、原稿ができていく。半ば自動書記に近い。
もちろん苦しいことは苦しいのだが、どんどん量産されていく原稿を他人事のように見つめているのが、猛烈に楽しく快感であったりもする。
おそらくこれがライターズハイ。
書き屋の産みの苦しみは、陸上選手のそれと同様にただ苦しいということばかりがクローズアップされがちだが、実はこうした「特典」がやっぱりあるわけで、ここにたどり着いた人がその先に行けるんでないかなあ、と思う。
今夜はそんなことを思い出しました。
去年、共通の友人の葬儀のときに久々に会ったんだけど、クニヌウヌウ先生、元気かなあ。