政治とお金の三すくみ

ちょっとティーブレイク。


昨今話題になってきた政治絡みの話と言えば……

  1. 「政治家の脱税」(鳩山、小沢)
  2. 世襲」(麻生、小泉、鳩山、小沢、福田、渡邉、田中……他多数)
  3. 「組合の裏金」(輿石、山岡、小林……)
  4. 「宗教」

セケン的には触れるのはタブーに入ってくるけど、一応宗教も入れておこう。

このへんがニュースを騒がせているのだが、実はこれは全部繋がった話で、平たく言うと「政治権力の覇権争い」と言える。
これは、単純に思想的な「右や左の旦那様」の話だけではない。

供託金の話

まず、その前に選挙の供託金のことをちょっと解説。
日本にあっては何人たりとも(被選挙権年齢に達すれば)、自由に立候補できる、ということになっている。
でも、実際にはそうではなくて供託金というのが必要。
この供託金というのは、「選挙に出ますよ、本気ですよ、ある程度の支持者はいますよ」ということを証するための保証金みたいなもん。保証金というか、(本当は違うけど)立候補者の選挙参加費、と置き換えると理解しやすい。
供託金=いくらかのお金を保証金、参加費として用意し、一定の得票があれば、仮に落選してもお金は戻ってくる。しかし、ほとんど投票がないような場合は、供託金は取り上げられてしまって戻ってこない。


昔は供託金は安かったので、いろいろな人が政治的な主張をして立候補をしていた。
対立候補に対して嫌がらせをする、選挙管理委員会の手間を増やすためだけに立候補する、なんて人もいた。


また、宣伝行為/売名行為のために立候補する人もいた。これは最近だとスクラップ&スクラップ外山恒一(2007年東京都知事選候補)がそうだし、長田正松の日本愛酢党*1なんかもそう。
政見放送は候補者が自由に主張を述べられ、放送禁止用語だろうが宣伝だろうが自由にできた。本の宣伝をしてる候補者なんかは多かった。
供託金だけでNHKの電波に5分枠の広告が打てる、ということになれば、これは非常に安上がりだからだ。


ちょっと困る人というのもしばしば立候補していた。
警察病院が私に電波を発信している、と訴える人とか、何らかの怨念を発信してる人とか、呪術的な政見広報を乗せる人だとか、宗教関係だとか。オウム真理教は「オウム真理党」という政党を組織して大量の候補を送り込んだことがあった。*2
宗教関係の立候補では幸福の科学が昨年の都議選に大量に候補を送り込んで壊滅してた。*3


このように、供託金が安いと「冷やかし立候補」が出てきたり、選挙が「キチガイの見本市」になってしまったりする。選挙管理委員会の手間は増えるわ、立法・行政に関わる覚悟のない人が当選しても困るわ……ということになって、供託金が引き上げられた。
これだと冷やかしで立候補して供託金を失いたくない、という冷静な判断ができる人は冷やかし立候補を思いとどまるし、宣伝に使っていた立候補者にとっては割高になるし、ちょっと困る系泡沫候補は継続的に「金を捨てる」ような余力があまりない人がほとんどなので、経済力が十分にある一部の名物泡沫候補*4以外は出馬できなくなったわけだ。

金持ち有利にならない決まり

さて、このように供託金が高くなると、「健全な成人なら誰でも被選挙権を持つ」という当初の理念は怪しくなってくる。
つまり、「そこそこの金がないと立候補できない」ことになる。
もちろん、「多くの支持を集めれば供託金は帰ってくるんだから、借金してでも選挙に勝てばいいじゃないか」ということも言えなくはないのだが、選挙に勝つには今度は選挙運動も必要になってくる。
その昔は、選挙運動と言えば実弾w*5頼りだったのだが、それだと金持ちが有利になってしまう。そのため、金をばらまいて票を買う、物品を与えて票を買う、ということは禁止になった。
政治的主張をするのにビラや冊子、ハガキ、テレビ・ラジオ・映画宣伝、アドバルーン、ポスターなど……を投入するには資金がいるわけで、これも金持ちが有利になってしまうので、これらは禁止或いは制限を受けた。お金を払って人を雇ってはいけない*6、ハガキ・ポスターの枚数も制限されている。*7
それでも、選挙カーなんかの費用は掛かるので、よく「自分は後ろ盾もない庶民ですよ!」というのをアピールする戦術として、自転車で選挙区を回ったり、歩いたり、走ったり、というようなことが行われるわけだ。
改めて宣伝するまでもなく元々有名人・著名人が政治に参加するのは、そうした選挙運動に掛かる「名前と顔を知って貰う」という部分で非常に大きなアドバンテージがあるからで、顔と名前がモノを言う比例代表制などの客寄せパンダには、各党ともに有名人を口説き落として投入したりもするのはそういうわけ。


でもやっぱり選挙にお金が掛かることに変わりはない。
ここで、「誰の、どんなお金で立候補するの?」という話が出てくる。

誰の金で立候補、誰の金で政治をする?

立候補して政治家になるにはやっぱり金が必要。
大きく分けると、こうなる。

  1. 自己資金
  2. 企業献金
  3. カンパなど

自己資金というのは、要するに当人がお金持ちであるということだ。小沢一郎鳩山由紀夫麻生太郎田中眞紀子などがその代表格で、この人達は「実家が金持ちか、当人も金持ち」。だから、他人の金をアテにせずに、自己資金で立候補できる。
小沢一郎は厳密には自己資金じゃなくて、企業献金政党助成金をくすねてるので「実家が金持ち」には入らないのだが、当人が金持ち、というところには入れておこう。


昔は政治家というのは「金がある人がやること」だった。一方、あまりにも持ち出しが多いので、「財為した後に名を欲して政治に手を出すと、家が傾く」とまで言われた。政治家をやると、ほんとに没落して貧乏になってしまった。そのくらい政治には金が掛かった。


でもこれだと、本当に金持ちしか政治家にはなれず、金持ちに都合のいい政治ばかりが行われてしまうので、当人がお金持ちじゃなくても立候補、政治活動ができるように……ということになった。
そこで出てくるのが企業献金
企業*8から献金を得ることで、それを自己資金の代わりに政治資金に充てる。ひとつの企業から膨大な額を貰うと偏向するので、複数の多くの企業から献金を得るようにする。そうした献金の管理やとりまとめが必要になるので、「資金管理団体」「後援会」という支援組織ができてくる。
構図として、政治家というトップの下に後援会という家臣団がいて、有権者という領民がいて……という図式で考えがちだが、企業というスポンサーを開拓したりとりまとめたりするのは後援会で、政治家かはその後援会のトップであったり、または後援会の認定する代表者であったり、という位置づけ。
ともあれ、この後援会+企業献金があれば、本人が例えばフリーターでもニートでも貯金が一円もなくても、立候補できる。


でもこれだと、政治家は企業、特に「経営者・資本家」の代弁者になってしまい、労働者の声が政治に反映されなくなるじゃないか!*9 という不満に答えたのが、三つ目。あえて「企業献金」と「カンパ」を分けたが、このカンパの形で代表者を立候補させているのが各種の労働組合
「金はないけど組合員のカンパで」「金はないけど人手は投入可能」「まとまった票田もあるよ」ということで、労働組合人海戦術を得意とする。
ここに押されて出てくる候補も、当人に金がなくても労働組合というバックアップ組織があれば政治活動ができる。金も労働組合が組合員から集めてなんとかwしてくれる。
この労組に推されて立候補するのが、労組の幹部とか。日教組幹部の輿石東(参院民主)や、関係者が続々逮捕されている北教組の小林(衆院民主)などがこれに当たる。


他に、この労組を「教団」に置き換えたのが、宗教系政党。労組のカンパではなく、信者の浄財の形で集められた資金を、労組幹部ではなく教団幹部に注ぎ込んで議員として当選させる、というスタイルになる。この場合も、資金力(信者の財力と組織の集金力)がものを言う。


これらのスタイルが、それぞれ自勢力の代表者を少しでも多く国会に送り込もうとしているわけだ。

脱税・金持ち批判

このうち、脱税・金持ち批判については、2008〜2009年に掛けては麻生太郎(自民・前総理)に、2009〜2010年に掛けては主に鳩山由紀夫(民主・首相)に行われている。
金持ちのくせに生意気だ、金持ちは庶民の気持ちがわからない、金持ちなのに脱税をしている、こういった論調で行われる金持ち批判は、政治資金として潤沢な自己資金を持っている、という金持ち議員への非難・批判になる。政治信条や政策などへの批判とは別個のもので、それこそ当人には選べない出自wと、その出自が故の金銭管理/金銭感覚への批判だ。
これは、有権者の多くは金持ちではない、という点に立脚していて、「金持ちではない庶民の有権者の賛同を得るために、それと相反する金持ち議員を叩く」という、選挙前のアジテーション戦略と言える。
実際の所、麻生太郎にはこれが効果を上げ、「ホテルのバーで飲んだ」「カップ麺の値段を知らない」「お坊ちゃん」の誹りが罷り通って人気を落とした感がある。*10
同じくらい金持ちなのにそのときに鳩山由紀夫がやり玉に挙がらなかったのは、「攻撃側にいたから」に過ぎない。政権交代後は、じわじわと鳩山も「金銭感覚の杜撰さ」がやり玉に挙がるようになっている。
これで得をするのは、「当人/実家が金持ちではない」という立場から立候補している人々で、企業献金を受ける候補や労組系、宗教系候補は、それぞれが「庶民」の立場を代弁でき、自身に有利になるので思い切り叩く。

世襲企業献金批判

小泉進次郎の立候補のときにはさんざん「世襲批判」が為されたのだが、実は政治家のほとんどが世襲……とは言わないが、その割合は大きい。麻生太郎福田康夫小泉純一郎鳩山由紀夫小沢一郎*11田中眞紀子、渡邉喜美、平沼赳夫……などなど、実は与野党にわたって枚挙に暇がない*12。実家が金持ちなので代々政治家、という家はともかくおくとして、必ずしもそういう世襲ばかりではない。
世襲批判の実態はというと、実は「後援会を継承できるからずるい」というものが多い。これは、政治家一族ではない(自己資金がない)という人が政治家になるときには、どうしても「企業献金とその受け皿になる後援会」が必要になるのだが、後援会は自身の推す代表者=候補が替わるときには、「名前=看板」や政策・信頼感の継続性から、前候補の血縁者を推すことが多い。
このため、そのサイクルに入り込めない候補からしてみれば、「後援会を占有していてずるい」ということになる。
ただこの感覚は、後援会を立候補者の「家臣団」「子分」「親から継ぐ財産」という見方をしているため。実際、小沢一郎がそうしてきたように、親の財産を後援会の所有にし、子供が後援会を相続すれば相続税がかからない、といった指摘もある。特定一族が政治を継承し続けるのは「ずるい」、相続税を脱税するために後援会を使うのは「ずるい」というわけだ。
これについては、「特定の一族が後援会を恣にしている」と見るか、「後援会が特定一族を選び続けている」と見るかでずいぶん意味合いは違ってくるのだが、「自分は後援会に担がれるような価値がある候補であるかどうか?」という問いを、自分自身に対してはしない人ほど、世襲ずるい説を取っているような気もする。
後援会ではないけど、企業有力者に気に入られてタニマチになってもらい、政治活動をしてきたというような例は歴史にも数多いし、現在だってちょくちょく見かけるし。
世襲批判はこうした「当人が金持ちとは限らないけど、後援会がバックアップしてくれる候補」に対する妬みと言い換えることができる。*13
また、後援会は献金のとりまとめ・受け皿でもあるわけだが、企業献金批判というのは、この後援会を無力化しようという目論みのものとも言える。
後援会=企業献金が禁止されてしまうと、元々家が金持ちか、労組のバックアップがあるかのどちらにも属さない、「左派ではなく金持ちでもない」という候補は立候補できなくなってしまう。
国民新党亀井静香などが企業献金禁止に猛反対しているのはこのへんが理由で、「金づるを禁止されたら、金持ちか左翼以外は政治に参加できなくなる」と指摘している。
つまり、世襲批判/企業献金禁止というのは、金持ち議員と労組系議員にメリットがある。また、家が金持ちではなく、タニマチもなく、労組にも属さない、つまりは市民団体の後ろ盾で活動する*14ような議員にとっても絶好の攻撃対象と言える。これは企業の代弁者という立場になる後援会を「維持してきた議員」への妬みから来る。

労組批判

家が金持ちでもない。企業献金が得られるわけでもない(経営者側ではない)。というのが労組系候補者だが、労働組合が候補者を擁立しようと思ったら、「無尽蔵の人海戦術」だけでは賄いきれない、供託金やその後の政治資金などをどこから捻出するのかというと、まずは「組合員による寄付・カンパ」。
これを献金と分けた理由として、企業献金が「経営者の自己資金」や「企業の収益の一部」から捻出されるのに対して、「組合員による寄付・カンパ」は、形の上では個人献金に属するため。
実際にはカンパはノルマになっていたり、払わないと組合での立場が悪くなったり、ともすると「組合費から天引き」になっていたりする。
この天引きにした金をあくまで「カンパ」とし、まとまった金額を裏金としてプールしていた……というのが、北教組で問題になっている話なのだが、これは北教組に限った話ではなくて、日本全国の全ての教職員組合、または「政治的アクションを起こすあらゆる労組」に共通の話。
数が多すぎて追いつかないだけのことで、手を突っ込んだら大なり小なり入れ食いになるようなレベルだろう。
労組批判というのはこの組合員から天引きした「カンパ」をプールした裏金を、政治家に注入することの是非という奴なのだが、これの批判は労組上層部と組合員を離反させることにある。
組合員は自分の政治的信条とは無関係に自己資金を使われていることになるわけで、しかもその使い途が労組幹部の飲食費などにも充てられていたり、自分と必ずしも信条が一致しない候補の活動に当てられていたりということいなると、あまり良い感情を持たない。
また、労組上層部には「専従職員」と言って、「特定の企業の労働組合員なのに、企業の労働者としては一切働かず、組合の活動だけをする」というプロ組合員がいる。そして、そういう専従職員が労組幹部となり、議員として立候補したりする。当人は働いていないのに、働く労働者を代弁するという矛盾の上に立っている。この労組専従という矛盾は、企業系労組だけではなく公務員系労組などにも見られるもので、労組出身議員が政治的な発言力を持つことで、公務員改革が頓挫したり、人件費削減などが棚上げされたり、といった「ムダ、ロス」の停滞が起きてくる。
こうした労組の腐敗/疲弊を批判することで利益を得られるのは、金持ち系(自己資金がある)候補と、世襲・後援会系(企業献金がある)候補ということになる。


宗教系候補はこの労組系候補の持つ特徴と重なるところが多く、組合員を信者に置き換えると、概ね似たようなものと理解できる。
後は、政治的主張が若干違うだけの話なのだが、公明党共産党は仲悪いとか、社民党公明党は協調できないとか、福祉重視に軸足を置きがちな宗教系政党と左派系政党は、案外足並みが揃わない。互いに「似て非なる、と言われるのも嫌」なのだろうと思う(^^;)

自分はどこに位置するかを考える

こんな感じで、金持ち批判と世襲企業献金批判と労組批判というのは、互いに三すくみ状態にあるということがわかる。
多くの報道、または多くの批判というのは、大概は主語が書かれていないので「誰の視点からの主張、批判なのか?」ということがわかりにくいのだが、実はこのように複数の勢力による覇権争いであるということが見えてくる。


では、自分は誰の(どの)立場にもっとも共感できるのか? というのを考えることになる。
「誰の金も貰わず、自己資金だけで政治を行う、金銭的には(比較的)クリーン。だけど、庶民感覚とはかけ離れたセレブ」
「金のなさは自分と同程度だけど、経営者というタニマチの信用厚い一族」
「労組の代表者として、労組の金で戦う労働者。でも金は裏金」
「教団の代表者として、信者の金で戦う。金はお布施を集めたもの」
どれも自分が共感しにくい、だから誰も選ばない、白紙投票する俺、潔い……と考える人もいるのだが、それは単純に「白紙委任」であって、自分が望まない人間が当選しても、それには従わなければならない。
それでも、自分にいちばん近い、または自分がいちばん「許せる」候補を我々は選ばなければならない。


実はもうひとつ、一見すると魅力的な選択肢というのがある。

クリーンな候補、その罠

「誰の金も貰わず、政治献金も貰わず、国から貰った政治資金だけで政治を行う。能力があれば後援会がなくても政治家になれる。選挙のバックアップは政治資金に基づいて政党が支援してくれる」

……こう書くとなんだかすごく理想的で、今すぐこれでいきましょう! という気分になってくるのだが、もちろん、うまい話だから落とし穴も付いている。


まず、それでも立候補には供託金が要るという点は変わらない。
それを個人が用立てられないなら、政党が……というのは、これは共産党などがそうしているのだが、自民党などは「自力でそれを出せる、或いは用立てましょうと言ってくれる人の繋がりを持っている、地元の信頼を集めてくることができる」というところで候補者の能力を見ているらしく、「人に担がれないような奴はダメだ!」という判断基準があるらしい。選挙運動では人前に立って演説し、投票をお願いすることになるわけだから、そこらへん(誰かに頭を下げる)ができない、政策立案能力だけではダメ、というのが自民などが「自力でお金を集められる能力」というのを重視していた根拠らしい。
で、自分ではそういう資金を用立てせず、党に頼るとする。
企業献金も集めない。


しかし、政治はタダでできるわけではない。それこそ事務所のコピー機から視察に必要な旅費まで様々掛かるわけで、そうした費用は議員なってしまえばある程度は「歳費*15」が出るが、それだけでは足りない。足りない分を党に頼ることになると、党の負担が増大する。
党はそうした資金源として、党所属の国会議員数に応じて振り分けられた政党助成金というものを税金から支給される。
が、「これから選挙に立候補するけどお金がない」という候補の分も党が負担するとなると、所属議員の人数が少ない政党は、少ない数の候補しか擁立できない、ということになる。
つまり、一度多数派を占めた政党はその分だけずっと有利になり、少数派の政党はずっと不利に甘んじることになる。
また、この政党助成金、選挙資金というのは幹事長が管理分配する。
つまり党の台所を握る幹事長に睨まれると金が振り出されない。自力で資金を集める能力がない新人若手議員は、発言も政策も制限されることになるわけで、それこそ「金が欲しかったら言いなりになれ」という要求に屈しなければならなくなる。
2009年の衆院選の前後からの民主党がまさにこの状態で、「無名で後援会もなく、企業献金もほとんど受けていない、公募に応募した新人候補」の政治資金のほとんどは、小沢一郎幹事長が握っている。小沢に顔向けできないようなことをすると、資金的に干されてしまう、というシステムになっているわけだ。


結局、そういう候補に投票したとしても、有権者の声はまったく届かないことになる。


逆に「党に頼らなくても自分の資金(または、自分の後援会)だけで選挙ができ、勝つ自信もある」という候補は、徒党を組むことを嫌がり、すぐに離党を言い出す。かつての鳩山由紀夫がそうだし、平沼赳夫田中眞紀子、渡邉喜美、亀井静香など、自民出身で離党・鞍替え・旗揚げした議員らがそうだ。
しかし、民主主義政治*16というのは「党派を組んで同調者を増やす」ことで多数派を形成し、その多数派の上位にいることで政策が実行できる、という仕組みになっているわけで、「自分だけなら当選できるから」と「意見が合わないから」と、辛抱せずに飛びだしてしまうのは、結果的に国会には帰ってくるけど立場的には泡沫候補と大差ないものになってしまう。


やっぱり有権者の声は届かない。




というようなことを一通り勘案した上で、自分の一票は、「自分と立場・考えが近いもの」を自分達の代表として選ぶのか、「自分がやりたくてもできないことを成し遂げるもの」を自分の代理として選ぶのか、「自分の所属する組織の意向に従っておく」のか、というようなことを考えて投じることになる。


どの答えも出せないから無投票、投票に行かない、白紙投票という人もいるが、とにかく白紙投票だけはよくない。
「自分は投票には行ったが、行った上で政治に対して堂々とNOを表明したのであるッ!」
と誇らしげに宣言する人がいるが、政治にNOを宣言したからといって、与党になった政治が決めたルールに従わなくていいわけじゃないんですよ、と。
結局、相対する多くの政策・選択肢・候補者の人柄や主張と言ったものを比べて、「いちばん許せない候補だけは選ばない」という方向で誰かに一票は投じなければならない。
白紙投票は、単なる白紙委任に過ぎないのだということを肝に銘じ、「三すくみの批判合戦」についても、誰の立場に自分は共感できるのか? というのを、見失わないようにしたいよね、と思うのだった。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%84%9B%E9%85%A2%E5%85%9A

*2:全員落選

*3:宗教と政治は隣接的関係にあって、元々「不特定多数を統治する手段」として宗教が発達したことを思えば、宗教が「政治」に接近してくることは不思議ではない。日本史を紐解けば軍事力まで擁して政治に関わった延暦寺の例があり、現代ではイスラム革命によってイスラムの戒律に基づく政治を行う国もあるし、教皇国家元首という国もあるし、現代日本では創価学会公明党の関係を完全に無視することもできないのだが、踏み込むといろいろ大変なので、なかなか皆さん触れたがらない。

*4:誰とは言わないけど秀吉(ry

*5:現金

*6:今も選挙運動はボランティアの手弁当

*7:インターネットの利用は図画(ハガキ・ポスター)に準じるので、公職選挙法では制限されているのだが、これは遠からず改正されるだろう。

*8:個人もだが

*9:他に、企業が政治家に便宜供与を求めることになり不正ではないか、というような指摘ももちろんあるのだが、そこに触れ始めると果てしなく脱線するので、今回は割愛。別の機会に譲る。

*10:漢字誤読は揚げ足取りだが、「金持ちのくせに」「いい大学出てるくせに」という妬みとやはり直結している。

*11:実父は自民議員の「小沢佐重喜

*12:国会議員ではないが、美しすぎる八戸市議・藤川ゆり世襲wで、実父も市議会副議長。世襲制限に前向きな山本一太(参院自民)は、実は父親も議員で二世議員。チーム世耕で名を上げた世耕弘成(参院自民)は、祖父・伯父が議員。

*13:世襲は腐敗する、世襲は能力と無関係にバカ殿が継承してる、というのは、大部分はやっかみだと思う。政治というのはやはり専門的技能職であるわけで、政治家の大変さというのを小さい頃から見てきた者が、歌舞伎や伝統芸能のように親の後を継ぐというのは、よほどの覚悟がなきゃできないと思う。いいことばかりじゃないんだから。

*14:菅直人は市民団体出身

*15:給料

*16:民主党主義は準スターリニズムなので、民主主義とは別